「黒い盆地」

  呉市民の戦災応募体験記と資料

    呉戦災を記録する会 編




 目 次


はじめに  ...この戦災体験記の意義...

第一部 応募体験記

    一 高橋 節子.......軍都とよばれる町で
    二 尾崎 静男......戦後五十年の節目に思う
    三 下垣内 順子....誰にも知られない戦争
    四 磯道 ヒフミ.....思い出
    五 秦 寛子........呉市空襲の思い出
    六 藤原 薫........「呉空襲」とは何だったのだろう
    七 水野上 展祥....焼夷弾投下の中をくぐりぬけて
    八 中村 和枝......戦争と私
    九 沖原 佳子......忘れ得ないあの日
    十 松岡 清徹......呉空襲直前の状況
   十一 島居 須美枝....戦争と私の人生
   十二 塚野 政秋......(妙子さんのお陰で)
   十三 石田 桂三......機雷投下と空襲
   十四 藤原 誠........警防団
   十五 宇根内 京子....劫火
   十六 林 栄男.........火の海
   十七 山田 武義......呉空襲の思い出
   一八 久留島 晶子.....忘れまい呉空襲
   一九 福本 和正......呉の空襲体験の中から
   二十 永田 富子......戦争と私
   二一 山中 和子......燃える西の空
   二二 柳井 順三......呉工廠の空襲
   二三 住吉 佐津代...(無我夢中の戦中・戦後)
   二四 浜田 公夫......第一次呉沖海空戦
   二五 吉田 肇夫......黒い盆地とヒロシマ
   二六 坂口 裕........戦時体制下の学校生活
   二七 田中 真佐子....学徒動員の頃(竹原高等女学校)
   二八 富田 和男......戦争中の私の思い出
   二九 土居 瑠子......ある学徒の記
   三十 桑原 彦造......戦争の想出
   三一 公文 寿子・久幸...(焦土の本通を歩く)
   三二 岡本 節子......(悪夢のようなこの日)
   三三 石井 春子......(掘り出した陶器)
   三四 水野 美那子....(二度とさせたくない私の体験)
   三五 石原 武夫......広方面海軍施設戦災史


第二部 呉戦災展によせて

一,1975年(三十周年記念展)


    一. 池田徳一....(蜂の巣状の焼夷弾筒)
    二. 匿名........(鹿田から見た呉空襲と市街の惨状)
    三. 宮原 康久....生活を破壊した呉空襲

二,1995年(五十周年記念展)


    一 佐々木 富三...(戦争はもう沢山)
    二 池上 多恵子...(水を飲ませたっかた)
    三 久保 .........(両城の丘で見た呉空襲)
    四 掛井 義行......(焼夷弾筒を寄贈)


第三部  資料編

一 中国新聞 体験記事(林海軍報道班員) 1945年


二 あれからちょうど十年(中国日報)   1955年


三 呉空襲体験記 第一集(呉三津田高校) 1975年

   一 打田 勝彦......戦慄
   二 高取 穂........呉工廠空襲体験記
   三 内山 玉野......呉空襲体験記
   四 井下(名和)貞充子..私の呉空襲体験記

四、呉市の行政資料と米国戦略爆撃調査団報告 1945年

   一 防空態勢

    I.呉市罹災者避難実施計画
    II.全般的な報告....援護課
    III.防空対策
      A.家屋疎開
      B.防空待避壕
      C.人員疎開
      D.警戒体制

   二 被害調査と援護活動

      A.空襲後の手配
      B.別記(海軍の報告)

   三 各種統計資料

      A.呉市空襲被害調査票
      B.戦災当時生徒数
      C.物資配給調査票....配給の実態
        1.配給対象人口数
        2.主要食糧
        3.副食品
        4.調味料
        5.燃料
        6.繊維製品
      D.爆撃被害
        1.建築物
        2.給水施設
        3.戦災水道被害状況調書...呉市水道部
        4.電気事業被災状況...呉電業局

   四 呉市議会ヘノ報告議案書 1945年度

   五 アメリカ軍の呉空襲記録 (空中偵察写真 付)

    1.海軍工廠造船部門の空襲被害
    2.目標情報シートおよび任務概要
     A. 攻撃目標情報シート(広海軍航空機工場)
     B. 攻撃任務概要   (広地区)
     C. 攻撃目標情報シート(呉市街工業地帯)
     D. 攻撃任務概要 (呉海軍工廠)
     E. 攻撃任務概要 (呉市街)
     F. C.I.U  (損害査定 報告)


おわりに  ...アメリカ軍の記録と呉市民の体験記...




本文
「黒い盆地...五十周年記念体験記と呉市戦災資料」

はじめに...この戦災体験記の意義...

            呉戦災を記録する会  朝倉 邦夫


戦災・終戦の五十周年の記念事業として「戦争と私の人生」(戦災体
験)を募集したところ、多くの方々から貴重な体験記や遺品を寄せて
いただきました。
戦後五十年も経つと、戦時中に使っていた品物や書類、空襲当時の記
念物なども失われ、記憶も薄れてしまいます。後世に残さねばならな
い貴重な施設や遺品、また、戦災体験の収集は、この五十周年記念が
最後の機会になるかも知れません。
五十周年記念に際し、私たちは呉市役所にたいして五十周年事業計画
の一部として、当時の遺品や体験記の収集を呉市の事業として行い、
「市政だより」で市民に提供を呼びかけて欲しいと申し入れていまし
た。
しかし、呉市は、呉市政の基本は「暗く悪い思い出は忘れ、明るい戦
後の復興の良い面だけを市民に伝えたい」、したがって「空襲・戦災
記念館をつくる予定もないので遺品を収集する必要はなく」また「市
民の体験記は客観的な史料価値がないから市史編纂室も不必要だと言っ
ている」ので協力はできない、と言うことでした。
今まで、呉戦災を記録する会は幾度も呉市に対し、戦災体験および戦
災遺品や資料の収集をお願いしてきましたが、遂に五十周年記念事業
でも相手にされませんでした。
全国的には、県内でも広島市や福山市・竹原市などは、市行政が公的
に戦災の記録や遺品を収集・保存し、戦災記念館をつくって展示し、
また、市民の戦災体験を募集して発刊しています。
東洋一の海軍工廠と呉鎮守府・呉軍港のあった呉市は、日本の中でも
有数の空襲被害を受けました。呉市の歴史上最大の被害を出した呉空
襲を後世に伝えることは呉市民の義務でもあります。
このような中で、応募されたみなさんの貴重な体験記は、他の都市の
体験記以上に重要な意義があります。
呉は軍都だったために秘密のベールに包まれ、敗戦時には記録を廃棄
したり、呉市が収録していた基礎資料も隠し、僅かに残った記録も散
逸させてしまいました。
呉市の空襲・戦災に関する行政資料の一部は、戦後、アメリカ戦略爆
撃調査団には提供されましたが、呉市民には未だに公表されていませ
ん。
日本の公的な記録があまり無い中で、呉の戦災を明らかにするための
資料として、有力な資料は二つあります。一つはアメリカ軍の記録で
あり、もう一つが呉市民の空襲体験記です。
提供された空襲体験記は、日米両国の公的な記録の不備を埋める詳細
で具体的な感性のあふれた記録です。
一人ひとりの記録は局部的で主観的な、不正確な点もありますが、全
体の体験記を集めてみると、空襲の実態をよく伝えています。
例えば、アメリカ軍は、呉市街を夜間に焼夷爆弾攻撃して、二千人の
呉市民を無差別に、残虐に焼き殺しました。
アメリカ軍の記録では、目標の中心地点を東泉場町(現・栄町商店街
南)に決めてレーダー爆撃をしました。アメリカ軍の攻撃命令書には、
休山方向からの攻撃線に沿って、目標地点への爆弾投下だけが書かれ
ており、特に「呉市の周辺部から焼夷弾を投下し、逃げ道をふさいで
残虐に殺せ」などとは書かれていません。
しかし、呉市民の多くの体験記には「アメリカの爆撃機は、休山周辺
から灰が峰周辺、三条そして中通り、本通りの中心部へと焼夷弾を落
とし、市民の逃げ道をふさいで残虐に焼き殺した。」と書かれていま
す。
B二九爆撃機がどのように来襲し、焼夷弾がどのように落とされ、ど
のような状態で、どのように爆発して、どのように人が殺されていっ
たか、逃げまどう人や焼ける市街の状況など、本当の呉空襲の実状は
個人の体験記録でしか知ることはできません。
寄せられた体験記により、戦前の呉市街のようす、呉海軍工廠のよう
す、呉空襲のそれぞれのようすがよく分かり、五十年目にしてやっと
書けたた戦災・空襲に対する恐怖や苦しみやに思いを致し、平和の尊
さを伝えることができると思います。

「本書の構成」

本書の題名は、応募体験記の印象深い言葉の中から選びました。
第一部は,戦災・終戦五十周年の記念事業として、子や孫に伝えよう
「戦争と私の人生」という体験記の募集に応じて投稿していただいた
原稿を、ほぼ原文のまま掲載しました。
昔使っていた用字も、その時代の雰囲気を伝えるため、現代的な書き
方には改めませんでした。若い年代の人には読みづらいかとも思いま
すが、苦労して読んでいただけないでしょうか。
投稿者の題名がついていないものは( )でかこみ、仮に付けてみま
した。
各体験記の前に簡単なコメントを付け、読書案内にしています。
投稿文の一部には、以前に投稿していただいていたものも含まれてい
ます。
第二部は、呉戦災展を開催した際のアンケートや感想ノートに記載さ
れていた文の一部の中から選んでみました。当初の予定では、呉戦災
五十周年記念集会で多くの方から戦災体験を語っていただいたものや、
パネル討議の体験発表を収録するつもりでしたが、紙数の都合で、次
の機会に廻させていただきます。
第三部は、資料編として、まず、戦災体験の記憶や思いが、戦時中・
十年目・三十年目の経過の時代別でどう変わるか、紹介してみました。
つぎに,今まで公表されていなかった呉市の行政資料で、呉市が空襲・
戦災に対し、どんな施策を採り、どんな行政資料を収録していたか、
戦後、アメリカに提出した資料の一部、および市の未公表資料の一部
を収録し、呉戦災を解明するための一助としました。

目次へ



第一部 応募体験記



一.軍都とよばれる町で

               高橋 節子
                (呉市宮原三丁目十二−五)

(防空壕は空襲から身を守るものと信じていた。「日本は勝つ」と信
じていた。しかし,それは単なる理念でしかないことを純真な女子挺
身隊員は体験した。工廠での出来事、恐怖の空襲、苦難の生活などを
詳細に語る。)

私が生まれた所は、呉市宮原三丁目で、かの有名な「戦艦大和」を建
造した、巨大ドックの真上にあたる地域です。
日本は諸外国を敵にまわし、無謀な戦争を続け、最後には苛酷な運命
を甘受しました。当時、私は二十歳の乙女で、女学校を卒業後、挺身
隊の一員として呉海軍工廠に配属されました。工廠は厳しい空爆を受
けましたが、幸いにも私は九死に一生を得ました。
後日、再び呉の市街地に大空襲があり、焼け出されたので取りあえず
母の実家に同居させてもらっていました。昭和二十年八月十五日、玉
音放送により、戦争は終わりました。
<女子挺身隊の頃>
 私は、昭和十九年の春、女学校を卒業して直ぐ「女子挺身隊員」と
なり、呉海軍工廠砲熕部設計係に配属されました。偶然、小学校から、
ずっと一緒だった友と、私を入れて三人組で白鉢巻きに、紺のモンペ
の凛々しい姿で、毎日、工場へ通勤していました。友達二人の仕事の
内容は、従業員名簿と給料計算、工場内の壁新聞の掲示などでした。
私は父が軍人であった為か、機密書類の受付、整理、関係幹部への取
次ぎ等でした。
昭和十九年の夏ごろから、敗戦色が次第に濃くなり「受注カード」が、
応じきれない状況なのを知り、胸が締め付けられるような、切なさを
感じました。私達の雑談の中でも、決して軍の機密事項は、口外出来
ず、緊張の連続でした。
戦時中の食べ物としては、当時、前線へ、兵糧として、米や麦などの
主食を始めとして、魚、肉、卵、それに調味料の砂糖、食料油などが
輸送されるため、一般の人には入手困難となり、皆ひもじい思いを耐
えて暮らしていました。
「欲しがりません、勝つまでは」とのスローガンが掲げられ、愛国の
念から日本国民が一丸となって銃後を守ろうと、出征した父や、夫を
前線に送り出した母や妻たちは、女手ひとつで細々と僅かな空き地を
耕して子育てをしていた。しかし、食べ盛りに子供たちには、とても
満足できるものではなかった。その為に、さつま芋の蔓までキンピラ
の様に調理したものとか、かぼちゃの料理、主食では、芋がゆ、大根
めし、大豆ごはん、雑炊、野の草入りダンゴ等を作って、空腹をみた
していた。卯の花ずしや炊き込みご飯、竹の子ずしは、御馳走の方で、
田舎から年末にお歳暮として送って来たお餅を囲み、近所の子まで歓
声を上げて母の焼くアンコ餅や、きなこ餅の出来上がりを待って、む
さぼるように食べた懐かしい思い出が忘れられません。 昭和二十年
三月のある日正午ごろ、突然「空襲警報」のサイレン、退避も出来な
い程の早さで米軍機が飛来し、驚き呆れて、「アレヨアレヨ」と、指
差し乍ら見ている中、呉湾上空を悠々と旋回しながら、飛び去ってい
た。不思議に私達の工場は、その日、攻撃目標とならず、ホッとした
ものの、白昼堂々と、工場地帯の航空写真を撮られて、不安の日々が
続きました。
そして六月二十二日、B二十九が、延べ二百九十機が、編隊を組んで
呉海軍工廠を標的に二十分間隔の波状攻撃を開始し、造船部を除く、
砲熕部、水雷部、電気部、製鋼部などの、軍需工場地帯に襲いかかっ
た。
よく晴れたその日、私たちは出勤早々、「警戒警報」に続いて、「空
襲警報」のサイレンで、三十人あまり全員が地下壕へ退避した。(男
女別に入った)中は、真っ暗で緊迫した時間が、刻々と過ぎ、極度に
緊張が高まった。
突然、これまで耳にしたことのない「シュー、シューッ、シュッ」と
いう音が、頭の上に迫り、次の瞬間「ズズズズ、ドッカン」と物凄い
炸裂音がした。暫くは、失神状態で、話声もなかった。周囲をソッと
見回すと、壕の中は、黄色い土けむりが爆風のために大きく渦巻いて
いた。
入口の鉄扉が歪んで、僅かな隙間から、木材、紙類、その他の焼け焦
げる匂いと、汚れた空気が流れ込んできた。
爆風で歪んだ鉄の扉が開かない。寸刻を争う事態に全員が力を合わせ、
押したり引いたりしているうちに、奇跡的にようやく一人通れる出口
が開き、明るいお日様の中に出たときの嬉しさといったら、なかなか
表現出来ないくらいだった。
工場は、直撃を受けて、鉄筋三階の床を突き破り、二階床も斜めにぶ
ら下がった格好で鉄骨が露出し、炎上しているのが目に入った。頭上
には、艦載機が私達を狙ってか、爆音が絶え間なく聞こえてくる。
私達の工場が、最初に被爆したため、串山の防空壕へ到着するまで、
他の工場は無庇であったので、一直線に走り込む。先の壕に入って一
息ついていた男子工員も、後から駆け込んだ私達も、これからどうな
ることかと、重苦しい雰囲気に包まれていた。波状攻撃を受けて、次々
に工場が被爆炎上し、大丈夫と思っていたこの壕には居れくなった。
風向きが変わって、煙がどんどん入って、その上熱風が入ってきだし
たからでした。
次に考えられる防空壕は、山手の方にありました。無我夢中で走って
いる中に、何時の間にか、友達と離れ離れになっていました。逃げ惑
う私達を狙って、またしても執拗な機銃掃射が続き、「バラバラ バ
ラバラ」という音が身辺に迫ってきました。第二の壕にたどりつき、
扉を力一杯叩いたが、「ここは満員でだめだ。次の壕へ行け」といわ
れた。泣きながら次を探して、よっやく小さな壕にに入れてもらった。
長い長い攻撃が終わり、壕の外に出たときの解放感は、何ともいえぬ
ほど嬉しかった。後で聞いたところでは、私が入れて欲しかった山裾
の防空壕は、哀れにも直撃弾を受け、地盤が脆かったために、入口が
塞がれて、全員が死亡というのを聞き、痛ましい限りでした。
こうして呉海軍工廠への大空襲が終わったが、私達三人娘は、奇跡的
に助かり、暮色迫る周囲の山々を仰ぎながら、ようやくの思いで、家
に帰り着いた。煤だらけの私の顔を見た母は、狂喜して強く抱き締め
てくれました。それは、一足先に帰宅した、近くの職場に勤務する人
から「お宅の娘さんの職場の建物は爆撃され、炎上してしまったので、
おそらくその中で爆死しているのでは?」と聞かされていたので、半
ば諦めていたためだった。
工場が焼失した後も、引き続き、近くの防空壕(現在の宮原高校真下)
の中で焼失を免れた書類や、機密図面の整理をしていた。
戦局は、日増しに悪化し、硫黄島の玉砕、米軍の沖縄上陸、ドイツ軍
降伏、沖縄ひめゆり部隊の痛ましい戦死に続く、沖縄戦の終了の知ら
せなどが、次々入ってきた。
<焼夷弾攻撃……呉市街地>
遂に、呉市街が焼夷弾に曝された。昭和二十年七月一日の真夜中のこ
と、何時も通り一家団欒の後、皆が寝入った深夜、十一時三十四分に
警戒警報、続いて空襲警報が重苦しく鳴り響いた。連日連夜の警報で、
また直ぐ帰るのだからと、何時もの通り、防空頭巾を被り、非常用カ
バンを肩に家族五人が、急いで、防空壕の入口まで来たとき「パッ」
と照明弾が閃き、真っ暗な家並みや、私達を一瞬赤々と照らしだした。
これこそ、B二十九型の編成機による大がかりな焼夷弾攻撃の始まり
であった。三方が山に囲まれ一方が海に面している呉市街への攻撃は
巧妙でしかも、残酷、そしてその結果、惨たらしい大きな被害が出た。
先ず、山裾の地域全般に、続いて低地の中心街に、八万発の油脂焼夷
弾が投下された。「モロトフのパン籠」と呼ばれた焼夷弾が高度3百
メートル上空で、親爆弾が炸裂し、焼夷筒の三十八〜七十三本が、自
動発火して、まるで花火の「しだれ柳」の様だった。
防空壕の中にいた私達は、周りの家々が、「パチパチ」と音を立てて
燃え、物凄い煙が容赦なく私達に襲いかかったため、身の危険を感じ
壕から逃げ出した。目の前に広がる火の手を避け、暗い山道に向かう。
ふと気付くと、三つ違いの弟と、並んで走っていた。坂道で一番手前
の家々が、道路を挟んでメラメラと燃えていた。それを見て、弟は一
瞬、立ち止まり動かなくなった。(弟はこれまで被爆した体験がなかっ
た)咄嗟に私は「グズグズしていたら、二人とも焼け死んでしまうよ」
と弟の手を掴み、強引に火の中を走り抜けた。振り返って見ると、燃
えつきた建物が崩れ落ち、火の海となっていた。暗い山道を登って、
いも畠に着いたが、私の足は、ワナワナと震え、おもわず座りこんだ。
遥かに見える呉市街地や、山裾一帯が、まるで噴火口のように真紅に
燃えているのを、ただ呆然と見詰めていた。
夜が明けて、私達は、心細さと空腹を抱えて、我が家の前まで戻った
ところ、父も母も憔悴しきった顔で、妹を連れて焼け跡に立っていた。
家族が手をとり、無事を喜んだが、我家も隣家も全てが灰燼になって
しまった。ガラス戸は高熱のためにラムネ瓶のようにねじれ凝固して
いた。焼け跡からは何一つとして使えるものも見当らず、焼けただれ
た焼夷弾が、奥の居間辺りに転がっているのを、数日後知った。この
日の被害は、死者千八百十七人、重軽傷者四百五十三人、行方不明五
十三人、全焼失家屋二万二千三十五戸、罹災者数十二万二千三十五人
と記録された。
<原子爆弾と私>
 呉空襲で焼け出された我々一家は、一応、母の実家に同居させても
らったが、二週間ほどすると、江田島海軍兵学校に勤めていた父が、
岩国航空隊に転勤することになり、家族で同地へ移ることになった。
しかし女学校を卒業して挺身隊員の一員として、呉海軍工廠で働いて
いたので、転居は許されず、私一人が呉に残っていた。
昭和二十年八月五日の朝、私は二日間の休暇を取って、父の居る岩国
を訪れた。
航空隊への道が遠いので、駅前で途方に暮れていると丁度目の前を、
航空隊と書かれた大型トラックが通りかかった。勇気を出して同乗を
頼むと、車上に引き上げてくれた手は、父親の手であった。父の目に
は涙が光っていた。新しい宿舎の風呂に入って、久しぶり親子四人で
寛いだ。
翌八月六日の朝8時すぎ、ラジオを聞きながら、縁側を拭こうと身を
屈めたとき、朝日のかがやきよりも、もっと眩しい光線が目の先を走っ
た。「一体なんだろうか」不審に思って辺りを見回したが異状はない。
しかしそれまで賑やかだったラジオの音楽や、ニュースが、何故か
ぱったり聞こえなくなっている。部屋の中に入って故障の有無を確か
めようと、ダイヤルを回して見た。他局の放送は聞こえてくるが、広
島放送局は、シーンとして聞こえない。なおもダイヤルを回している
と、「広島放送局、広島放送局、聞こえますか?聞こえたら誰か返事
をして下さい」と呼び掛ける声は聞こえたが、不気味に沈黙はそのま
ま続いた。
五十年も経った今日でも鮮やかに思い出される。悪夢の一瞬としか
言えない、原爆投下の朝のことである。「人の命は紙一重の差」と言
おうか、私の岩国訪問が一日遅れていたら、私もあの朝、広島で原爆
の犠牲になっていた筈である。二日間の休暇は終わり、再び呉に返る
ことになった。車窓から異様な広島の惨状を目にしながら……。
                       

目次へ


二.戦後五十年の節目に想う

                 尾崎 静男
                  (呉市西愛宕町七ー四)

(呉空襲中の消防署員として活動した貴重な体験談の一つ。市街での
恐怖に満ちた伝令行と無惨な光景。唯一残されている、呉空襲中の猛
火の中での消火活動の写真に写って、マスコミでもお馴染みの人。)

戦後五十年で思い浮かぶのは広島市の原爆投下であり、私たちの最も
身近な事で呉大空襲です。昭和二十年七月一日の空襲惨事、消失家屋
二万二千戸、死者重軽傷者、行方不明あわせて二千三〇〇余名の犠牲
者を生じた戦争による悲劇であります。
私は昭和二十年二月一五日、少年消防官として採用され一ヶ月の間の
短期教養のため消防・警察練習所に入所、三月一五日広島県消防手を
拝命、呉消防署勤務を命じられました。当時の私は満十七歳十一ヶ月
の世間知らずの若者でした。
呉消防署着任の勤務は空襲に備えて日夜の対空訓練、望楼勤務による
対空監視、新人の私にはめまぐるしい毎日が続いていました。
そうして一ヶ月が過ぎた頃、頻繁な空襲警報に備え、職員の勤務体制
が変わり二当直一非番といった非常勤無体制となり、甲部、乙部、丙
部の三部制で、私は丙部勤務、本部伝令班を命じられました。
空襲警報発令されるや直ちに署長室入口で班員三名で待機(現在の無
線代わり)なお空襲警報発令と同時に車庫内の消防車十数台は各方面
の待機場所へ分散出動、車庫内には署長乗用のサイドカーとトラック
程度といった状況でした。
そういった状況のなかで三ケ月余りたった昭和二十年七月一日深夜、
呉大空襲に遭遇した私は身も心も震えていました。でもこうした体験
が消火活動に対する大きな原動力になったように思います。
当日は乙、甲部が当番日で私の所属する丙部が非番でした。
申し遅れましたが、当時は、警戒警報発令と同時に非番職員は自動的
に勤務場所に応召することになっていました。
私は当時、本通十一丁目(現在の本通小学校付近)に住んでいました。
家族は四人で、兄は海軍応召中、母と妹と私の三人暮らしでした。夜
十一時半頃警戒警報のサイレン、直ちに私は身支度を整えて小走りに
家を後にしました。
現在の本通四丁目大映の映画館あたりにさしかかった時、花火を打ち
上げるような音響と共に照明弾の投下により、青白い光で呉全体が昼
のような明るさになり、俄かに周囲がざわめき始めました。それから
約五、六分後すさまじい音響と共に焼夷弾が投下され始め、私は足を
速め消防本部に到着しました。
その時はすでに市内の建物があちこち延焼していました。私は二階に
かけ上がると、署長は数名の者に興奮気味に指揮していました。伝令
班の私達二名は車庫前の消火栓により庁舎周囲の消火活動を命じられ、
直ちに防火衣等を着装し、必死に放水を開始。周囲は猛煙猛火の中、
焼夷弾落下音「シュルシュルーズドン」小刻みに身は震え、なんとも
いたたまれない恐怖でいっぱいでした。
しかし人間捨て身というか、ひらき直りというか私は覚悟を決めたと
たん、今考えて見ても不思議な程冷静さを取戻し、使命感に燃え、爆
音、建物の燃焼音、避難者の叫び声の中、熱気を注水飛散で身を冷し
ながら、必死に消火に当っていました。
そういった状態が約一時間も続いた頃でした。車庫前で指揮していた
白木署長が、庁舎の向いの延焼中の呉警察からの飛散物で負傷、数名
で救護し寝室に収容、まもなく私は署長伝令として岩方通り九丁目
(現在の中央五丁目、福祉会館付近)へ出動中の一号ニッサン分隊に
至急本署へ帰署伝達を受令し、岡田(稔)消防手と私は燃え盛る火煙
の中へ出発した。
燃え倒れた家屋、電柱、飛散物などで道路はほとんど塞がれた状態、
右へ左へと懸命な行動中、現在の文化ホールの北側だったと記憶して
いるが、どこから来たとも判らないお婆さんが、私の防火衣の裾を死
物狂いでつかみ「つれて逃げて下さい」と必死の叫び、私は進退極ま
り振り切ろうとしたとき、ふと私の目に映ったのは当時、町の辻々に
設置されていた十米四方、水深約一・五米ばかりの防火水槽でした。
岡田消防手と二人でそのお婆さんを水槽の中へいれ、「お婆さん、こ
の縁を放さずしっかり持って」と言いながら煙を透かして見ると、水
槽の中には既に数名の避難者が入っていた。「お婆さんを頼みます」
と言葉を置いて私たち二人は行動に移ったものの、建物は燃え崩れる
まで火炎地獄の中、燃え垂れた電線に足をとられ転んだり起きたりの
繰り返し。
来た道を引き返すこともできず、二人は猛煙猛火の中必死に突進。す
ると幸いかな堺川の楓橋に辿り着いた。九死に一生を得た二人は、顔
を見合わせるや橋の欄干から水面めがけ飛び込んだ。水深は浅く大勢
の人が腹ばいで退避していた。暫く身体を冷し、川沿いに伝令目的地
に向かった。あとから気付いたことであるが、消防署の裏から川沿い
に行けば、難なく目的を達成できたものをと、今でも後悔している。
軍よりの指令で、次の空襲目標になるから一時も早く残火鎮圧せよ、
との指令により、総力を上げて三日三晩、不眠不休の消火活動が続い
た。
空襲の翌日、私も分隊に編入され、方面担当の残火鎮圧に出向き、路
上の障害物を除去しながら、偶然にも前夜お婆さんを避難させた水槽
のそばにさしかかった。
私も気になっていたので水槽に近づいて見ると、水槽の中で死亡した
と見られる四、五体が引き上げられ、並べられているのを見て驚いた。
何とその中に私が退避させたお婆さんがいるではありませんか。私は
ぞっとし何とも言えない気持ちになり合掌した。それから五十年たっ
た今でも気掛かりでなりません。

目次へ


三.誰にも知られない最後

               下垣内 順子
               (呉市阿賀北五丁三十三ー九)

(黒っぽい町が,一夜にして白い町に変わっていた。中通から堺川へ
必死の逃避行。九死に一生を得て見たものは・・焼け出された人のも
のを盗むなんて、人でなしだと当時は思ったが・・五月橋付近での悲
しい思い出。)

突然の空襲警報が鳴り始めた。家の中にも防空壕が掘ってあったのに、
あの晩は母親と二人あわてて外に走り出た。灯火管制でいつもは真っ
暗のはずなのに、あの晩は夕焼けのようにはっきりと辺りが見渡せた。
どんどん走って、境川に向かった。母親と離れないように、必死で手
をつないで走った。
走っている間にも、頭上からばらばらと焼夷弾がはじけて落ちてくる
のがわかる。足もとには、黒い人影が幾人も転がっていた。死んでい
たのか、転げていたのか。逃げることに心を奪われている私は、その
上をどうやらこうやらまたいで進んでいった…。
 戦後五十年のこの夏、敗戦の記録があちらこちらで発表されたが、
私も多くの思い出に浸っている。昭和二十年は小学校卒業の年であり、
女学校一年生として、人並みの苦労の始まりの年でもあった。なんと
か母親とともに生き残ったのであるが、あの晩の記憶は忘れられない。
小学生になった孫に語って聞かせたのは、自分の苦しい体験であった。
が、ふと、あのとき私がまたいだ人は、あれからどうなったのだろう
と思い始めた。原爆で生き別れ、死に別れた人を捜し歩いて、多くの
人がその体験を記録に残されている。
しかし、呉大空襲でも大事な家族と生き別れ、死に別れて、探し歩か
れた人は多いことだろう。堺川にかかる五月橋で、無念にも焼夷弾の
直撃を受けて亡くなくなられた人、そして堺川の中に飛び込んで浮か
んでいたあの多くの人たちは、どうなったのだろうか。
私自身が生きることに精一杯で、あのときの、同じように生死を身近
に体験した人々とに思いを馳せることはなかった。しかし還暦をすで
に越えた今、誰にも知られないで最後を終えられた人びとの、冥福を
祈りたいと思い始めている。また、忘れられないと思い始めている。
また、忘れられないと思っていた記憶もだんだんと薄れていくようだ。
何だか夢でも見たようなそんな気分になっている。そこで、ささやか
な体験であるが記録しておきたいと思い立った。
七月一日の終わりに、私が横になって着ていたのは、小学校六年生の
時に縫ったパジャマである。そして、枕許には、いつでも持ち出せる
ようにと勉強道具をいれた手製のランドルを置いていた。台所の床下
には、すばやく入れるように深い穴が掘ってあった。
父親は、徴用で九州の炭鉱に連れ去られていた。二人の兄はそれぞれ
陸軍と海軍で出征し、妹は山口県の親類に疎開して、家に残っていた
の母親と私のみであった。あの日、小学三年生の妹が家にいたら、私
たち家族はどうやって逃げただろうか。考えることさえ恐ろしい。
後になって聞いた話によれば、あの大空襲は、二時間半にわたってB
二十九 八十機が焼夷弾を落し続けたそうである。当時の中通四丁目
(登陽堂という書店)に住んでいた私たちは、とにかく川へ向かって
逃げた。ぐるりを山で囲まれている呉の街の、その山から焼夷弾で焼
き始めたそうだ。そうとも知らず、とにかく人の流れについてひたす
ら逃げた。
転がっている人につまづいて転びそうになる。それでも頭上のはでな
音につられて空を見上げてみると、ぱらぱらと降りそそぐように焼夷
弾が落ちてくる。
母親の力強い手に引っ張られてやっと落ち着いた先は、川岸の防空壕
であった。
すぐそばの赤い煉瓦づくりのビル(月見湯)が燃え落ちた。防空壕の
入口で小さく屈んでいた私は、あまりの熱さで、ふうっと気を失った
らしい。後で知ったことだけれど、どなたかが水筒の最後の一滴で私
の口を湿らせてくださったとか。それからまた、どなたか分からない
が私を抱えて五月橋を渡って、当時の商工会議所横にあった深い穴
(壕)に連れ込んで下さった。
七月二日の朝早く、ふと目覚めるまで私は何も知らない。近くの市役
所あたりには、まだちろちろと火の燃えているのが見えた。白い煙が
あちらこちらに昇っていて、全くの別世界だ。しばし呆然として座り
込んでいたが、中通はおろか、駅のほうまでみごとに丸焼けであった。
いつもは黒っぽい町が一夜にして白い町に変わった。
私を助けて下さった人は海軍さんで、船に戻らなければ…といって立
ち去られた。おにぎりを積んだトラックが、町中を走り出したのは昼
すぎだろうか。トラックの上から配られるおにぎりは、一人に一個で
あて。真夏の光線に照らされて銀色に輝くおにぎり。久々の白飯にあ
りつけたわけであるが、それはすでに傷み始めていて、二つ割にする
とねばって糸をひくのが見えた。
わが家の焼け跡は、熱くて何も手をつけられなかった。黒焦げのミシ
ン。何百枚とあるレコードの焼けただれた塊。ページのふちが焦げた
まま、焼けかけで散らばっている多くの書籍。ドイツ製のピアノも無
残な姿を見せて、すっくと一枚板のみが立っていた。あれは鉄板だっ
たのだろうか。
いずれの鉄くずも、それから一週間もたたないうちにごっそりと、何
者かに持ち去られていた。焼け出された者の品を盗んでいくなんて、
なんて人で無し、と当時は思った。
しかし今は違う。あのころは、だれもが生きるために命がけの時だっ
たのだ。あの焼け跡の鉄くずも、誰かの命を救ったのかも知れないと
思えておだやかな気持ちになっている。私の命も、誰かのお陰で助け
られたのだから。
 そしてあの日、誰にも見取られないで最後を迎えた方々をまたいで
逃げた、私たちこそ人でなしであったと気づかされるのである。戦後
五十年のあいだ、思い出しもしなかったけれど、あの日の御霊が、身
内の人の胸にうまくかえっておられることを信じ、ご冥福を祈りたい。

目次へ


四.思い出

          磯道(旧・坂根)ヒフミ
              (呉市阿賀中央九丁目十二ー二十六)

(大君のため、お国のためにと夢中になって工廠で働いた。愛する人
の出征時、血染めの日の丸を届け木陰から見送った。本通での空襲時、
幼児にすがって泣く母親を、心を鬼にしてせき立てて山に登ったこと
も。)

“あヽ、大君に召されたる”。「バンザイ」「バンザイ」今日も又。
我が家は呉駅前通り今西五丁目一−三一番地。四人の兄達は出征中、
私は不具な両親の一人娘の末っ子、只今、青春のど真ん中。
白いカッポー衣に大日本国防婦人会の襷に、日の丸の旗の波で呉駅に
向かう出征兵士を送る軍歌が後を断たない毎日でした。
我が家にも、階下の六畳二間に十二人の間借り人の配給があった。世
に云う海軍工廠の徴用工員である。
戦争の終わり頃には、女子挺身隊員も、学徒も、呉海軍工廠の産業を
担う為にと、全国から集められ世界一の人口密度に脹らんでいった。
我が家では、六人の人達が「行って帰ります」と、出て行った後に、
「ただいま」と、夜勤上がりの六人が帰ってきて、床を上げる間もな
い程フル回転である。
私も、自分から友人を頼りに、電気部無線工場に入ったのだ。三階建
ての白い広い工場だった。入廠して間もなく女ばかりの組の女組長さ
んから一番前にある、ドウナツ形の圧粉鉄心に電線を巻き、コイルを
作る仕事を決めれられた。
皆んなは私の方に向かって仕事をしているのに、一台の機械を与えら
えた私は、皆の方へ向かって一辺に学校の先生にでもなったようで、
恥ずかしかったし、嬉しかった。
そこからは、工場の隅まで何百人もの顔が一望できるのですから、舞
台の上で仕事をしている様で、一生懸命に夢中になって働きました。
毎日毎日、仕事に行くのが楽しくて、失敗しては落ち込み、上手に巻
けて嬉しかった。
私達女子の前を、男の人が通る度に「キャアー、キャアー」言うので
す。戦闘帽を真深く被った目が涼しい真面目な素敵な赤顔の美青年で、
私も、ドキドキしながら秘かに機械の影からみていました。
その頃、盛んにやっていた防火訓練で、隣の工場への集中放水で、標
的へ力一杯に水を掛けるのだった。男女代表選手として彼と私が選ば
れた。今ではたわいもない事を、当時は真剣に訓練に参加したのだ。
ある日、男性先輩のAさんから「彼は女性には一杯もてるけど、貴女
が好きじゃと」。「絶対に真面目なんじゃけん」と言って来てくださっ
た。皆んなに「ウァー、ウァー」。「ギャアー、ギャアー」とはやさ
れて舞い上がったのだけど、仲良しだった皆んなが一辺に冷たくなっ
た。
口も利いてくれないし、話しかけても返事もしてくれない。でも彼か
ら点された夢の様な胸の火を大事に、孤独に耐えていたが、次第にひ
どくなる。
Aさん宅に話しに行った。Aさんはお構いなく彼の処に連れて行って
くれて消えてしまった。彼は、二河公園内の寄宿舎から丁度彼の仲間
が呉駅に向かって出征するのを送るところだった。彼は団長だった。
彼は、この出征兵士を送りながら、私と一緒に我が家まで歩いた。今
度は公園で逢う約束をしてくれた。
公園でお逢いし、池の側の大きい石の上で、彼は慰問袋を呉れた。ハ
ツタイ粉、そら豆の煎ったの、勝栗等、郷里から篤い思いで送って貰っ
た物なのに。互いに手を取り合うでもなく、彼の写真を貰い、私の写
真を差し上げた。
そして、戦局は日々激しくなっていった。衣料切符制度で洋服もない
頃。正月休み明けの新年宴会に出席するのに、灯火管制の厳重な中な
のに、「モンペ姿では可哀想」と、兄嫁が白と紫の矢絣の着物を着せ
てくれた。Aさんが私と彼の為に皆んなに頼んでくれて、真っ暗な部
屋の真ん中に、二人顔だけ明るい電灯の下で三々九度の真似事をして
祝ってくれたのが、走馬灯の様に美しく、カゲロウの様にはかない一
瞬でした。
彼は間もなく出征して行きました。彼が出て征く日は、真っ白い銀世
界の朝でした。私は、せめてもと、小指を切って血染めの日の丸を届
けて、桜の木陰に隠れて居ました。彼が咳ながら追って出て来たが、
遠くから泣いて見送った。雪の中へこの身を投げて溶かしたいと泣い
たのだった。
彼の出征後、日増しに戦局は厳しさを加え、戦勝の「軍艦マーチ」も、
敗れた「海漬く屍」も工場に流れる日が多くなった。半日は防空壕掘
りでシャベル、土運び、ツルハシも持った。
遥か朝鮮の人も沢山手伝って下さった。呉の街も灰ヶ峰、石槌山にも
高射砲台を置き、白壁は、まだら模様にし、街角には防火用水を貯え、
道路側には小さい防空壕を造り、疎開道路も空襲に備えた。
毎日のようにB二十九の爆音とサイレンの音。その都度、工廠神社下
の壕に避難し、仕事は捗らず四時間残業が続く。
女子工員の通勤用廠内列車も空襲が激しくなる度に停まり、壕から壕
へと壕伝いに出退した。それでも女達は日の丸の鉢巻きをして防空頭
巾を持って、昼の弁当は大豆飯にヒジキにモヤシが入っていたが、誰
も不足は言わない。
 七月一日の夜十一時過ぎ、何時もの様に空襲警報のサイレン。隣組
の班長さんがゲートルを巻いてメガホンで「空襲、空襲、早く避難し
て下さい」と叫んで母を連れて行った。
 本通十三丁目から四ッ道路にかけて五分も経たないうちに、バアッ
と火の手が上がった。何十機の敵機から雨・霰の様に油脂焼夷弾が降っ
て来る。何時もと違う、防空頭巾を被り、靴を履く頃には、もう自分
の頭の上にも「シュル、シュル、ピュール、ドカン」。炎は一瞬にし
て我が家の屋根も垣根も植木も蚊帳もシュルシュル、ドンバシャン。
 隣の家も、その隣の家も見る見る火に包まれて行く。最後まで一緒
に残ってくれた水兵さんが「フミちゃん、火は消えない、早く逃げよ
う」と急ぎ立てる声を耳に、小学六年生の時に建て替えたばかりの、
生れ育ったこの家をおぶって逃げられるものならと、柱に抱き付いて
泣いた。
急かされて、互いに水を被って小路を出た時は、もう行く手も、後も
炎の海だった。左に行けば二河川は近い、その時、共済病院に爆弾が
落ちて爆風で体が浮く、黒煙と炎が渦巻く、真っ直に公園に向かって
水兵さんの手を取って走った。
足元にアスファルトがピチピチ燃えてくる。呉市中がまるで火の海で
ある。足をすくわれる程に風が吹き上げる。
街角の防火用水の上へ火の粉が花火の様に走り、パチパチ、ヒュルヒュ
ル燃えるのだ。逃げ遅れた人達がヨロヨロと風に足をさらわれながら
「早く逃げんさいよ」と叫びながら、私達は早い。
火の粉が目に飛び込む。公園の横の図書館の所まで一気に走って、振
り向いてみると、炎々と逆巻く紅蓮の炎が背に追いかぶさって来る。
そこへ、母が布団を被って通りかかった。「お母ちゃん」大声で飛び
付いた。母は泣いて抱き締めた。
バケツでいくら水を掛けてもびくともしない。疲れた体に濡れた服、
川風が身にしむ。燃え盛る炎と爆音は一晩中続いた。明るくなるのを
待って、我が家の近くまで行った。まだチョロチョロ残り火がくすぶっ
ている。
懐かしい見覚えのある茶碗が並んで見つかった。まだまだ危なくて近
付けない。七月の太陽と燃え残りのブスブスの炎がぶつかって街中が
カゲロウのようにユラユラし、熱風で空気も薄い。
人名点呼を町内で始めたら、またサイレンが鳴る。また二河の奥の鉄
管橋まで逃げる。二,三度繰り返すうちに疲労が限界に来た。我が家
を逃げる時、大豆の入った一升瓶が横にあったのに持ち出せなかった
事を後悔した。
もう動く力も無くなって公園の広場の炎天下で口も利けず、目を窪ま
せて、アホウの様になって座っていた時、焼山の奥からトラックが来
て大きな真っ白い真ん丸い、おにぎり一つ、乾パン三つ配給して貰っ
たのだった。それに罹災証明書だった。
大きな家の主人も、偉い人も、貧乏人も、何人のへだてもなかった。
一つのおにぎりがどれ程大きな救いであったことか。涙がポロポロと、
おにぎりに降り掛かり、涙と一緒にかぶりついたものだ。
やっと生気を取り戻し、さて、母を連れて帰る所があったのだと気付
く、父がニュース館で焼け野原の街の映画を見て、いずれ呉市もそう
なると、半年前から石槌山の中腹へ疎開をしてくれたのだ。
アッチコッチで黒焦げの死体は見て来たけれど、亀山神社裏の疎開道
路では、見渡す限り数百人とも数えきれない死体が塁塁と横たわって
いる。目から鼻から口から血が流れ、体はパンパンに膨れていた。母
の胸に赤ん坊、足元に子供達、血だらけの足が焦げている。炎に追わ
れて逃げ場を失った人達だ。
母が「可愛いやのう」。「可愛いやのう」と死体に取りすがって泣き
崩れる。そんな事をしていたら、この母が参ってします。心を鬼にし
て急き立てて山に向かって、おぶるようにして歩き、やっと疎開先の
家についてから母は患った。
街中を焼かれてから米軍は工場の方へ狙い撃ちが始まる毎日。爆弾が
容赦無く降って来た。工廠神社下の防空壕の中で爆風に震えたが、或
る工場では、その時の空襲で地下壕に海水が侵入して全員が亡くなら
れたのだ。
毎日、死体が運び出されガソリンで焼く煙が流れた。私も何日目から
か熱が出る。警固屋の病院で肋膜と診断され、工場へは行けなかった。
今度の我が家は毎日の空襲で、屋根すれすれの急降下に見舞われる。
向かいの畑にトマトが作り主を失って真っ赤に熟している。皆んなひ
もじい、バケツを持ったり、白い服を着ることはできない、土色に迷
彩して頭に木枝を付けて腹ばいでトマトを取りに行く。敵機の機銃掃
射をかわすまで、息を殺して待つ。
疎開した我が家には三〜四家族が共同生活した。日暮にササゲ(小豆
の仲間)と南瓜の煮る匂いがする。一口でよいから食べたい。工廠の
大豆飯が恋しい。種芋も食べた、南瓜の花も、若い葉も茹でて干す。
よもぎも野菜も取り尽くされる。母は海水を取り、父は、猫の額程の
畑を造り、草汁を飲んで空襲をしのいだのだった。
八月六日の朝、閃光が走り、爆風は家を揺さぶった。広島に原子爆弾
が投下されたのだ。キノコ雲がムクムクと一日中空へ広がって行った。
父は震えていた。あの時、広島の市民が一瞬にして閃光と爆風でやら
れ、建物は崩れ、炎に包まれた。何十万人の人達が死んで往った。
生き残った人達も、炎天下に火傷で、どれ程苦しかった事か、「水を
ください」「水をください」と、一滴の水を求めて、焼けた肌に、う
じ虫がわいていたと聞く。熱かった事でしょう。そんな焦熱地獄の極
限の人の心はどうだったのか、苦しいとも、切ないとも、図り知れな
い。そんな一人一人の尊い命の犠牲があったればこそ戦争は終わった
のだ。
八月十五日、全工廠で全工員がラジオの前に集められた。午後一時、
かしこくも天皇陛下の玉声が流れ、直立不動の姿勢で聞きました。陛
下の御言葉は、我々の会話を聞く様にはいかず、「ビビィー」と雑音
の中からも戦争に負けたことは伝わってきました。中でも「自分はど
のように成っても」とおうせに成られたように思います。私達も命を
掛けても国の為に頑張ろうと誓ってきたのだ。陛下は国民の命を救う
ために自分が犠牲に成ってもと敗戦を覚悟されたのだ、聞いた時、唯々
悔しくて皆んなで泣きました。とうとう来る時が来た。そうか日本は
負けたのか、私達も何時死ぬ時が来るか覚悟しなければと、それこそ
明日のある事も考えられない程、緊迫した悲壮感で解散した。家に帰
る者、国へ帰る者、工廠を後に散り散りに去って行きました。
戦争が終わって、もう空襲も無くてよかったなどその当時では思えま
せんでした。終戦後も飛行機の爆音が聞こえる度に、反射的に体が反
応して二、三年は爆音におびえた。爆撃の恐ろしさを体が忘れなかっ
たのだ。呉の町は見渡す限り焼け野原、命からがら山へ逃げて来た人
達が、わが疎開先の住まいに雨露凌げたらと、四世帯ぐらい一緒に暮
らし始め、近くの山小屋にも人が住み、ちょっとした隣組ができそう
なくらい、人が集まっていました。
私達が住む小高い丘の廻りは、石槌山へ上る軍隊のトラック通路があ
り、裏通路は広く山の奥から水を引いて大きな深い水槽を海軍の兵隊
が此所で食事の用意をする為に作って残してくれたものだ、これで私
達は救われたのだ。
市から所在地を調べ配給して頂けるまで、それこそありとあらゆる物
を食べた。人々は職を失い、する事は食べることだけ、続々と外地か
ら復員して帰って来ても、住む家も中には家族まで失って、失意のど
ん底に打ちのめされた人達がどれ程あったでしょうか?大人も子供も、
唯食べられそうな物は、命懸けで探した。よもぎ等、姿も見られ無い
程取り尽くされた。畠にできた物も見つかり次第取り者勝ちになった。
下界の町からは、朝から晩まで、“りんごの歌”が、戦後のやるせな
く持って行き様の無い虚脱感と現実のみじめさをあおりたてるように
けたたましく流れた。。
戦争は悲惨です。虚しい事です。醜いです。終戦五〇年目を迎えよう
とする今日、目を見張る経済成長も、十分な電化生活も、豊かな飽食
時代も、あの時を経て成り立っているのだということを忘れてはなら
ないのです。
全てが自由な今の人達、自己中心で本当の幸せが見つかるのだろうか、
人はいくら与えられても、心に優しさと思いやりを、人の為、世の為
に尽くす心を失ったら虚ろです。
胸の奥深くしまった扉を開けると、まだまだ昨日の事の様に鮮烈に傷
は残っているのです。二度と戦争は繰り返してはいけません。二度と
愛した人を失ってはいけません。
今年一月、彼が「只今復員して参りました」。朝夢で、私の前で敬礼
してくれた姿が真新しい。

目次へ


五 呉市空襲の思い出」

                 秦 寛子
                  (元 呉市古川町)

(父は子どもたちに荘厳な死を見せ他界した。その父宛に、今でも七
月二日には手紙を書く秦さん。戦時中の具体的な生活、裁判所あたり
での紅蓮の恐怖、空襲後の父たちの活動を通して見た人間像に思いを
込めて。)

お父さん、又七月二日がやってきましたね・・・
私は毎年、此の日が来ると手紙を書いた。旧呉市を焼きつくした空襲
の日、九死に一生を得た父と私の思い出の日である。
今年も変わらず七月二日はめぐってきたが、受け取ってくれる人はす
でになく、私は胸の中に強く生きている父に、そっと語りかける・・・
「お父さん、又七月二日がきましたね。」と。

軍港の町、呉は、それまでにもたびたび空襲を受けたが、主として港
や工廠がねらいうちされていた。
当時、二中と県女に在学中の弟妹は、学徒工員として工廠へ動員され、
登校ならぬ、命がけの出勤をしていた。
空襲のあった日など、市街地でも壕に出入りしながら、集中的にやら
れている工廠の空をながめて気をもみ、日暮れ時になると街角をまがっ
て帰ってくる姿を待ちわびて、命の縮む思いで門の前に立ちつくした
ものであった。朝の別れが永遠の別れ・・・・軍人だけでなく、市民
も学徒も、子どもまでがそれを日常とした時代であった。
十三や十四の幼い身で机に向かう身体を油に汚して、敵襲に命をさら
しながら「滅私奉公」する姿も、今思えば悲惨そのものであろうが、
当時は異常な熱気と気違いじみた精神至上主義の中で、ムゴイと感ず
るゆとりもない程、つきつめたあけくれであった。
次々と召集されて来る兵隊さん達も兵舎に入りきれずに、市内の小学
校の講堂などに寝泊りし、校庭や公園が練兵場に早変わりした。
家庭ではいいお父さんだったに違いない中年の兵隊さんには、それぞ
れ近所の子どものファンがついて、ひいきの兵隊さんが息子のような
若い下士官にぶんなぐられたりするのを涙ぐみながら、ながめたもの
である。
革靴のかわりに地下足袋をはき、木銃をかついだ兵隊さん達は、なじ
みの子ども達に別れの言葉をかけることもないまま、姿を消していっ
たが、新しい兵隊さん達は入れ替わるたびに少しづつ老齢化し、身体
つきも貧弱になっていった。
配給、配給で、極度に物資もなくなり、食べ物さえ不自由で、姿のう
つるような雑炊を売る食堂ができて、お鍋をもって並んだのも此のこ
ろである。
軍靴一足ない兵隊さんの姿に敗色を見出すことも出来ず、ただ勝利を
信じこまされて主婦達の竹槍訓練、バケツリレ−は日増しにはげしさ
を加えていった。七十キロはあろうかという五十すぎのおばさんがム
リヤリはしごに登らされ、目がまわって上ることも下りることも出来
なくなり「非国民」などとどなられるなどは日常茶飯事のことであっ
た。
軽い肺浸潤を病んで教職を一時ひいていた私も、勿論、安静などとい
う「ぜいたく」は周囲が許さず家屋疎開などにかりだされ、男の人に
交じって家を叩きこわす作業などをやらされていたものである。
中学生だった私の弟はオクテで、当時非常に小さく戦時下の学徒とし
て随分つらい目にあっていたように思う。常用のゲ−トルも長すぎて
か、きまり通りに巻けず、すべてが軍隊式の型にはめこまれた生活は、
はたで見てもムゴイようであったが、そんな子どもでも大人なみの夜
勤は容赦なくまわってきた。
朝、疲れ果てて家に帰っても、警報・又警報、はじめのうちこそ、皆
と一緒に防空壕に逃げ込んでいたが、疲労が積んでくると、もう決し
て起きだそうとはしなくなった。
バリバリと機銃掃射の音を聞きながら、母は弟の上に机をかぶせ、あ
りったけのフトンを積み上げると、小さい子をこわきにかかえて壕に
走った。
        *        *
運命の日、母は小さい子をつれて郷里に帰っており、家に残っていた
のは父と私。大きい妹と弟の四人であった。
その晩も、何度か警報が鳴って壕へ出入りし、防空頭巾にモンペとい
う例のスタイルで、寝床の足もとに新聞紙をひいてズックをはいたま
ま寝ていたような気がするが(灯火管制の暗やみの中で服を着替えた
り、靴を脱ぐひまのない晩はしょっちゅうであった) 弟のその痛ま
しいまでに細く不恰好なゲ−トルの足を、今、奇妙に鮮明に思い浮か
べるのである。
とにかく二十年七月一日の夜半か、二日の未明であった。
敵機の爆音が早かったのか、警報が早かったのか、とびだしたときに
は、B29は真上をゆうゆうと飛んでおり、オレンジ色の照明弾が四方
を真昼のようにそめて、ゆっくりと降りていくところであった。
当時、呉市役所は岩方通りにあったが、戦時下の兵事課となると大切
な書類もあったのか、二河公園の択善館に疎開していて、その課長で
あった父は、国民服にゲ−トル、鉄カブトといういでたちでいつもの
ようにその職場に走った。
残された三人、一応、防空壕に逃げ込んだのか、私だけがはじめから
消火にあたったのか、今となってそこだけポッカリと記憶の空白があ
るのだが、とにかく「まず、私が火を消す。私が死んだら、貞ちゃん
(妹)出て消してほしい。良ちゃんは、お国のための大切な身体だか
ら、消火作業ぐらいで犬死にしたら絶対にいかん。最後までここから
出ないでほしい」と二人の弟妹に言い渡したが、武者震い的な興奮と
はうらはらに、ひややかに事務的だったその言葉だけはふしぎにはっ
きりと覚えている。

すでに市の三方の山は火につつまれて、あちこちの民家からも火の手
が上がり、六・七十メ−トル先の小泉というおばあさんの家が燃えは
じめたところであった。ギッコン、ギッコンと道端のポンプをこいで、
一人でバケツを持って走ったが、真昼のような道路にはひとっこ一人
もいなくて「ゴォ−」とも「ワァ−ン」ともつかぬざわめきは不思議
に遠い遠い地底からのひびきのような気がした。
たたきこまれていた初期消火。あれでも五、六回は往復したのであろ
うか、気が付くと周りは火の海。裁判所へ向かう通りの両側の家も火
を吹き出していて、前も後も、ただ紅。市女の三階の窓から吹き出す
炎だけは冴えかかったようなバラ色であったのが妙に印象に残ってい
る。
それにしても、おびただしい町内の人はどこに消えたのであろう。常
にメガホンで命令叱咤した防空班長など、はじめから姿も見せぬでは
ないか。
とにかく、もう逃れる道はひとつもないのだ。後も前も、アスファル
トの道路さえも燃え始めているのだから・・・。
一番ボロの敷布団と毛布を二人にかぶせるとバケツ一杯ずつの水を頭
からかけてやり、私は防火用のヌレムシロをかぶった。庭ごしに裏の
家の軒先にチラチラする赤いものは見えたが、私の家は、まだ火はつ
いていなかった。
「ちょっと 待って!」
私はズックの足を後へはね上げて、ひざと手で這いながら、自分の部
屋に入った。そして、父のくれた万葉集二冊を、モンペのひもで腰に
しっかりとくくりつけた。他に何もほしいものはなかった。また、這
いながら玄関に出ると私もバケツ一杯の水をかぶった。
両側の家の熱気でアスファルトは溶けて、ネチャネチャとズックにひっ
ついた。薄い粗末なゴムを通して火の上をジカに歩いているような痛
みが、足の裏にあった。
ほんの五十メ−トル。四つ角まで来た時、突然、眼がくらんで何もの
かに突き飛ばされたような衝撃を感じたが、気が付いて見ると目の前
に紅蓮の炎が舞い狂い、私は道端に耳をおおって伏せており、弟妹の
姿はどこにもなかった。呼んでも叫んでも返事はなく、結局、二人は
道端の防空壕の一番奥にへばりついていたのだが、テコでも動きそう
にないのを、指を一本一本、ひきはがすようにしてムリヤリ連れ出し
た。万事オットリヤの二人にしては、えらく機敏に壕に入りこんだも
のである。
小型の焼夷弾が真ん中に落ちたらしいと気がついたのは、その後だが、
記憶ではすべての音が消えていて、今よみがえるのは、ただ炎と火の
粉の色と光だけの世界の中を動き回る三人の影だけである。
当時、市民は自家用の壕を皆持っていたが、二人が逃げ込んだこの壕
は町内でも一番大きく、頑丈で、どこで手に入れたのかセメントで上
が塗りかためてあり、町民羨望の壕であった。翌朝、この壕の中で五、
六人の焼死体が発見された・・・。おびえてしまった二人を励ますた
めに私は軍歌をたしかに歌ったのであるが、どの歌だったのか、今ど
うしても思い出せないでいる。
とにかく熱かったこと。道端の防火用水の水を何度も何度もかぶりな
がら歩いたこと(お尻に火がつきそうで走れなかった)。いざとなっ
たら火が鎮まるまで飛び込んで時間をかせごうと思ってたどりついた
大きな防火用の池の水が、油脂焼夷弾でメラメラ燃えながら動いてい
るのを見て、もう本当にどこにも逃げるところはなくなったんだ・・・
と覚悟せざるを得なかったこと。こうなったら父のいるところへ一歩
でも二歩でも近寄ろうと思ったこと。家屋疎開で広くした道路まで出
た時、はじめて一人の人間に出会ったこと。・・・その人は燃えてい
る壕の火を気抜けしたようにながめていた・・・・。燃え上がってい
る電柱と炎のうずまいている軒先のたった一メ−トルの間を通りぬけ
る時の心の氷のような冷たさ・・などと逆光線の絵を見るような感じ
で今も思い出すことは出来るのだが・・・。
その後、何度か「死」を見つめたことがあるが、直面した時、不思議
に人間というものは心が落ち着き、すっと血のひいたような静けさと
安定感を自分の上に見出すものである。何とか二人を助けてやりたい
と思ったが、それも叶わぬと知った時、燃え狂う炎の中で死ぬる恐怖
よりも、私は父の心の痛みを思ったのである。夜があけて焼け野原を
三人の子の遺体をもとめてさまよう子ぼんのうな父・・・。すぐ見つ
かるところで死んであげよう、どんなに熱くとも苦しくとも半歩でも
父に近づいて死のう・・・。父へのこの想いが九死に一生を拾ったの
である。やけこげをあちこちに作りながらヒリヒリ顔の皮をやきなが
ら、三人は兵事課のある公園へやっとたどりついたのである。

父の課の前の池にとびこんで初めて空を見上げたこと。高射砲一つ炸
裂しない無抵抗の空を、地上の炎に映えながら超低空でゆうゆう飛ん
でいくB二十九の銀色の巨体の美しかったこと、くやしいけれど美し
いとしか言いようのなかったあの翼の色と、オタオタとおびえて池の
中に飛び込んできた兵隊さんの顔の土色との対比。小高い丘に立って
眺めた呉市の断末魔の炎と光と影。七月二日の明け方の火事場のおこ
すつむじ風が松林をゆるがす故郷への挽歌。
        *       *
古川町X班。隣組長兼防空班長。国債の割り当て、物資の配給に何と
なく役得のコズルサを見せたこの人は、商用で上阪する度に阪神の爆
撃の廃墟とバケツリレ−の空しさをはっきりその眼で見ていたはずで
あった。
平素、型通りの初期消火をうるさく人には押しつけたが、敵襲と知る
と一目散に逃げ出したのであった。正直に最後の一人になるまで消火
にあたり、焼け焦げだらけで命からがらたどりついた私の前に、この
人は全くの無傷で大八車いっぱいの家財と共にゆったりと姿を現わし
た。
一番ボロのモンペに作業用上衣。持って逃げたものは万葉集とヌレム
シロ。それと命を守ってくれた雑巾バケツ一個。二十一才。これでも
女性、やけこげてヒリヒリする顔を川の水で洗っている私の前に優雅
に現われたYさんにも驚かされたものだった。グレイのプリンセスラ
インのドレスに真っ白な帽子、口紅もあざやかにニッコリする姿は同
じ被災者でも乞食と王女様。命からがら逃げるにしても何と当方の要
領の悪いこと・・・・。でも、たった一つの傑作は、炊き出しのおに
ぎりを班ごとに受け取りに行く時、お化粧品のケ−スも手提げ金庫も
おにぎり入れにはなりませぬ。昨日まで雑巾ゆすいだこのボロバケツ
が立派なおにぎり運搬器。乞食も王女も戦争成金も、みんなこのボロ
バケツから命の糧を手づかみにしたのである。
           *        *
私は馬鹿なのか幼稚なのか、全呉市が灰になったというのに、自分の
家だけはポッカリ焼け残っている、という幻想にとりつかれていた。
だから、あの瀬戸際でさえ、畳を土足で汚さなかったし、非常袋まで
おいてきた。
 いつになく、はげしく照りつける太陽にじりじり焦がされながら余
燼の中に立ち尽くして、なお信じきれずにいる私だった。そこには、
父の大切な数千冊の本が重なりあった姿のままで、きれいな、きれい
な灰になっていた。亡くなるまで本を離さなかった父だったけれど、
父と言えば本、本と言えば父。その絹ごしのような本の灰に、そっと
指をふれた時の感触と悲しみが、去年、大地へ帰っていった父の面影
と奇妙に重なって想いだされてくるのである。
当時、ベランダの上に土を運んで、生まれてはじめて私はお茄子を作っ
ていた。焼けた日、お茄子は可愛い実を三個ほどつけていたが、その
紺色の小ちゃな実に、私は自分の分身のような生命をしみじみと感じ
ていた。殺伐な命のやりとりの明け暮れ、イトシイと言うのはこのこ
となのかと胸にあふれるほどのおもいを私はその初めての実に通わせ
ていたのである。私はあとかたもないお茄子のやけあとに立って、い
つまでもいつまでもしゃくり上げていたのを覚えている。「熱かった
だろう。熱かっただろう」
お客用の大火鉢が押し入れのあとにコッポリ型を残していたが、さわ
るとあっけなく、ポロポロにくずれてしまった。
すべてを失った時、不思議におしいものはなかったと思うのに、お茄
子と本の灰だけは、あきらめきれない特別の感慨があった。
           *         *
隣組でも、むかいの組でも何人もの焼死者が出て、中風のおじさんを
壕の中で亡くした天理教会の御主人の泣き腫らした顔や、昨日までつ
きあった誰かれの焼死の様子など、あちこちでのささやきが改めて生
きていることの不思議さを私に感じさせた。
悲惨だったのは、和庄方面の壕に待避した人達何千人の集団の焼死で
ある。ムシヤキになってズルズルしているのを市長と共に処理にあたっ
た父の言葉によれば「みんな自分の子ども達だ。みんな自分の子だ」
と合掌しながら、市長自ら陣頭に立って死体を運びだしたと言うこと
である。
小さいときからバスや電車に乗れば、先ず父の席をみつけてあげる・・。
父は慢性腎炎と高血圧で若い時から苦しんでいたが、その父と市長が
泣きながら抱き上げた死体の重みを思う時、いろんな意味をこめて、
私は涙をあふれさすのである。市長はたしか鈴木登(みのる)氏と覚
えているが、いわゆる政治家とは違ったタイプの心のきれいな誠実な
人であったらしい。兵事課長として戦死公報を留守宅に通報する時、
どうしても事務的になれなくて、一人一人の悲嘆を我が苦しみと受け
止めていた父とはいわゆる意気投合して、「あの人は本当の人格者だっ
た」とよく父は言い言いしたものである。
真夏、異臭を放つ焼死体と荒廃した終戦前の阿修羅の中に、清らかに
人間らしかった二人の男。いつの世でもそうであるが、汚濁の中に咲
くはちすの清らかさは「美しい」というよりもはかなく悲しく、それ
故にまた ひかれるのである。
         *       *
数千にのぼる死者が出た中で、炎の中、とにかく私達は不思議に助か
ることができた。警報後、直ちに持ち場へ走った父は、目的地につか
ぬ間に炎にとりまかれ、残した三人の子をてっきり劫火の中に殺した
と思ったそうである。一切の私情をおさえて公用につくのが父の生き
方であり、また、当時の生き方である。父は三人の子に合掌すると、
炎を走りぬけて持ち場についた。
「三人とも、無事。公園まで逃げのびました。今、池の中にいます」
とのことづけを課員から聞いた時、父は思わず目頭を押さえたそうで
ある。三人を殺した悔恨が、一転して勇気百倍、やせた体にモリモリ、
力がわいてきた・・・と後で父は語った。
その父も昨春、七十七歳の生涯を閉じたが、その一生を象徴するよう
な端正な荘厳な死を私共に見せてくれた。私達姉弟の魂のよりどころ、
心のともしび、父は最後まで、親を越えた親であった。その親として
の父の魅力が九死の中から私達の命を救ってくれたわけであるが、今
の私に、一人の子の親として、父の万分の一もの値打ちと魅力がある
であろうか。また、子の運命を変えるだけの何ものかを持ち合わせて
いるだろうか。
         *       *
昭和十二年七月七日、蘆溝橋に端を発する日支事変が勃発したが、私
が広島県女の二年生の時であった。それからの私の青春は、すべて戦
争の中にしかなかったのである。考える自由も行動する自由もなかっ
た。戦争は、プライベ−トな心の奥底までドカドカと踏み込んできて、
決して「個」を生きることを許してくれなかった。物も、身体も、心
までも統制されて、人はみな、人でない人として生かされていたので
ある。
あの道を子どもたちに再び歩ませてはならないと思う。子どもたちの
生きる権利と自由が踏みにじられるようなことが、再び許されてはな
らないと思う。
 私は取り柄のない親である。恥ずかしいけれど、たいした親ではな
さそうである。しかし、子どもたちの命と自由を戦争の危険から守ろ
うとする時、また、親としての何らかの行動が必要とされる時、子ど
もたちの為に力強く立ち上がれる親でありたい・・・と、それだけは
念じつづけている親の一人である。

目次へ


六.「呉空襲」とは何だったのだろう

                藤原 薫
                (広島市東雲 三丁目三ー三十)

(当時,中一生だった少年の心を支配したのは、「銃後を守るのは当
たり前」であった。空襲に対する市民感情や町内の防空壕のようすを
活写している。無惨に焼死した母子像が焼きつき、油絵を残している。)

(一)
その時ぼくは上長迫町に住んでいた。呉一中に入ったばかりの、今で
いえば中一だった。
戦局は、’一時的’に日本に不利だった。少なくも当時の僕はそう信
じていた。夜八時四十分、僕は床についた。ここ何か月か、(記録に
よると四月中ごろからと思われる)毎晩敵機がやってくる。一回目は
十時か十一時頃、二回目は明け方の二時頃である。そのたびに全市に
 ウ−ーという「警戒警報」。そしてまもなくウー、ウーという「空
襲警報」のサイレンがひびきわたる。市民は、一斉に防空壕へかけ込
む。市民を総睡眠不足にしてやろうという作戦だ。
東京や他の大都市は大空襲にあったというニュースは聞いていたし、
呉でもあの三月一九日以来、広の十一空廠がやられたことや、父のいっ
ている海軍工廠がやられたことは知っていた。しかし、そういうニュー
スは僕の敵に対する憎しみをかきたてることはできても、少しもひる
む気持ちは起こさせなかった。睡眠不足にもならなかった。
一眠りした頃、いつものようにサイレンがなった。僕は目をさました
けど、「ああ、また日課だな」とタカをくくってウトウトしていた。
その時だった。「ババーン」と大きな大地をゆるがす音かして、ガラ
ス戸の外から昼間のような光がさしてきた。「ヤッタ」と一瞬、とに
かく枕もとに並べてある服、ズボン、防空頭巾、救急バッグを身につ
け一目散に裏山の防空壕へかけ上った。B二十九の最初の編隊が上空
を通過したあとだった。両親や弟たちがかけ上ってきたのはその後だっ
たと思う。防空壕の前の広っぱから見たものは、まさに真昼の光景だっ
た。 灰ヶ峰に向かってちょっと左前方、同窓生の田村君の家の上あた
りから二河公園の方へかけて円弧状に五つもあっただろうか、大きな
火の玉が空中に浮かんでゆっくりと落下している。照明弾が投下され
たのだ。今でいうフライヤーに落下傘をつけた構造のように思えた。
青白い強烈な光を出しながら、白い煙の尾をひいてゆっくりと降りて
いる。
 すぐひき続いて次の編隊が飛んできた。おそらくその音からしてB
二十九 三機くらいの編隊だ。壕の中に飛び込む。ウーンという爆音
が通りすぎていく。真上を通過すれば当分大丈夫だ。集ってきた近所
のテッチャンやヨシアキ君らと、また外へ出てみた。こんどはさっき
の照明弾と同じコースで、しかし、照明弾ではなく、焼夷弾が落とさ
れていた。点々と焔が上がっている。続いて、又、次の編隊が近づい
て来る。僕らは三たび防空壕へ飛び込む。これが僕らが見た旧呉市街
の最後だった。近所の大人たちが次々と集まってきて、敵機が飛びさ
るまで遂に壕の外に出ることが出来なくなってしまった。

ここで僕たちが入っていた防空壕について簡単にふれておきたい。そ
れは、この防空壕の位置と性格が、このあとの記述や他の人の手記か
ら、いくつかの大切なことを含んでいることに気づいていただけると
思うからである。
呉市はスリバチ型の地型だとよく云われる。南に軍港があるけれど、
すぐ沖あいに江田島・倉橋島が港をかこみ、西は三津田の丘、北には
灰ケ峯、東は石鎚山(休山)がある。いずれもかなり急な斜面の山だ。
だから、中心部の小さな市街地を除けば、どこの家も高いガケの上に
建っている。僕の家は中でも高い所で、それより上には二段しか家は
なかった。たまたま僕の家の背の方の一段上が家がなく、一区画だけ
広場になっていた。僕達はこつを「広っぱ」と呼び、いつも遊び場に
していた。今いってみると、それは猫のヒタイ程の狭いものなのだが、
これが僕たちの命を救ったのかも知れないと思うと、感慨深い。それ
はともかく、この広っぱの山側に私たちは横穴を掘っていた。巾一メー
トル、高さは大人一人やっと立てるくらい。U字型に曲がっていて出
入口が二つついていた。広っぱからは市内が一望できた。
防空壕は大別して三種類あった。ひとつは大がかりな横穴で、男たち
が集まって作ったものだ。市内に数ケ所あったらしい。二つ目は、各
自の家に作られたもので、家の裏に小さな横穴を掘ったものや、部屋
の中のタタミの下に縦穴を掘ったものもあった。三番目が私たちがこ
の一夜を過した種類のもので、近所の広場などに隣保班が相談の上つ
くり上げた十軒くらいの共用のものだ。もちろんこの場合でも各戸に
はそれぞれ床下壕は掘っていた。
話が横道にそれたが、ここで元に帰りたいと思う。
入り口はあとから来た人たちでいっぱいになっていた。僕の家族は全
員、一番奥の方につめ込まれたままで動けなくなっていた。だからこ
のあとは入り口付近にいる人の実況中継でしか外の様子を知ることが
できなかった。敵機は次から次と小編隊でのり込んできた。焼夷弾を
バラまいては飛び去り、又折り返してきては攻撃しているのか、次々
と別の飛行機がきているのか、それは知るよしもなかった。ただ、市
街地の周辺に火をつけて中の人を袋のネズミにしていることは実況中
継でわかった。
敵機の攻撃は極めて正確に行われたという。しかし、山腹の家々には
一発も落ちなかったかというと、そうはいかない。前の家にも一発落
ちたという実況が入った。前の家といえば僕のうちだ。いてもたって
も居られない気持ちだ。この時間には、もう敵機の攻撃は焼夷弾オン
リーだとほぼわかった。「外に出て火を消そう」、家族はそう話し合っ
たがとうとう外に出ることが出来なかった。入り口から入ってくる煙
のにおい。ああ、これが住みなれた我家の焼けるにおいなのか。この
においを永久に胸の中にしまっておこう。そう言いながらじっと穴の
奥で唇をかんでいた。

敵の空襲のやり方にはほぼ三通りのパターンがある。一つは最もハデ
な爆弾によるもの。この時は壕から一歩も外へは出られない。目と耳
を両手で強くおさえて伏せているしかない。音と風圧、破片がすごい
からだ。二つ目は、焼夷弾をまぜる方法だ。爆弾で消化作業を妨害し
て被害を大きくする。三つ目は焼夷弾だけ投下して焼きはらう。これ
は、山や海へ携帯燃料として持っていく、あの寒天状の油をバラまい
て火をつける方法で、音も小さく消火作業は容易である。特に初期消
火は有効だ。呉はこの第三の方法でやられた。このことは壕の中にい
てもほぼ正確にわかった。

私たち家族は何度か消火作業をやろうと決心した。近所の人たちもそ
んなに冷たくはない。いつも消火訓練を一緒にやっている仲間だ。と
ころが入り口をいっぱいにしているのは実は近所の人達でもなかった
のだった。下の市街地の方から命からがらのがれて来た人たちで一ぱ
いになっていた。近所の人たちは私たちと同様、奥で身動きもできな
いでいたのだった。
こうして二時間もたっただろうか。敵機は飛び去った。ようやく身動
きできるようになってきた。おそるおそる外に出て我家の焼跡を見た。
もしかしたら目をつぶって外へ出たのかも知れない。とにかく胸がド
キドキしていた。ところか幸か不幸か消失したのは僕の家ではなかっ
た。隣の家が灰となっていた。喜んでいいのか悪いのか。隣のオバさ
んが狐につままれた顔で放心している。「’うちが’なくなっている」
と急に泣き出した。「前の家の横の家」というのを実況中継が「前の
家」と短縮していたのだった。
市街地は一面の火の海だった。ボヤボヤしていたら火の手はすぐここ
まで上ってくるにちがいない。
消火作業が一段落して、これならもう大丈夫ということになったのは、
もう東の空が白み始める頃だった。中一といえばもう一人前である。
何軒もの燃えている家を倒し、燃えかけている家の火を消したかわか
らない。最後の水をバケツでかけたのは僕の家から北の方向八軒目く
らいの家だった。家の名前はどうしても思い出せないけど行けばわか
る。とにかく数時間よく働いた。今、僕の次男が中一である。大きく
なったとはいえ、まだまだ子供のような気はするが、やればできる年
頃なのだろう。そういえば先日テレビで見たのだが、解放戦線の兵士
がサイゴンへ入城していく。その中に子供の兵士がたくさんいた。戦
争とは子供を大人にしてしまうのだろうか。
(二)
消失した隣の家は福井さんという家だった。ご主人は海軍工廠の「ギ
テー」さんと云われていた。大変エライ人らしく、正月や、紀元節に
は勲章をたくさんつけて礼服で出て行かれた。年の頃は六十才くらい
だったと思う。
大きな立派な家でよく遊びにいった。その家もあと跡もなくなった。
近所の人達も「気を落とさないで」とか「元気を出して」とか云って、
はげます者は一人もいなかった。そうかといって福井さんが近所のキ
ラワレ者だったかというととんでもない、みんな仲がよかった。なぜ
云わなかったかと云えば、それはただ誰でもが自分の家がなくなった
くらいでひるむ筈がない、家が焼けようが焼けまいが、昨日も今日も
また明日も、銃後を守っていくことがあたり前だと思っていたからに
ほかならない。焼けなかった人達が、服やナベなどをあげた。僕の服
もヨシアキチャンにあげた。未了

目次へ


七.焼夷弾投下の中をくぐりぬけて −平和を願い、態度で示そう−

               水野上 展祥(のぶよし)
                (呉市広両谷三丁目八ー十四)

(逃げまどう母と子、懸命にわが家を守ろうとする父。油脂焼夷弾の
炸裂のようすは、まさに体験した者でないとわからない。岩方通から
二河川へ逃げる途中で受けた焼夷弾の恐ろしさ、焼け跡のわが家は・・)

戦後五十年たった今でも、戦災の記憶が蘇える。昭和二十年七月一日、
B二十九の焼夷弾攻撃により、わが家は全焼し、旧市内が一夜に焦土
化し、全財産を失い、着のみ着のままで呆然とした体験をこの機会に、
ありのまま記述したい。
私は呉市岩方通八丁目、精華女学校近辺で生まれ育った。民宿ができ
る程の広い家で、価値ある家具もあった。
焼夷弾投下される半年位前に、この長年住みなれた家は建物疎開で取
り壊され、コンクリート道路に面した近所に住居変更し、両親と私と
弟、四人暮らしだった。
長男は西部二部隊へ、次男は整備予科練に志願し、軍人。私は天応の
阪田製作所(研究室)に勤務しながら、広島市工(定時制)に通学。
弟は広島文理大物理研究室(助手)をしながら、私と同じ学校に、黄
土色の戦闘帽、学徒服、布施靴で通学していた。
七月一日は、午後十時半頃、弟と共に帰宅し、母の心のこもった料理
で食事をし、その日の学習の整理と明日の準備をしていた。電燈に暗
幕カバーをかけ、蛍の光で勉強。午後十一時半頃、警戒警報発令。
「警戒警報だ!」と家族に知らせると共に、机上を整理し、玄関を開
けてみると、和庄方面が赤い炎をあげ燃えていた。「和庄方面が火事
だ!」というと母はびっくりし、貴重品をいれた風呂敷包みを出して
いた。父は家を守るため、火たたき、スコップ、バケツ等を準備し、
表道路にでていた。
B二十九は山麓から焼夷弾攻撃しだし、みるみるうちに、四ツ道路か
ら、現本通六丁目方面にかけて、火の海になりだした。真っ赤な炎と
共に、照明弾が落下し、呉市の夜空がピンク色に染まった。すると、
自宅の正面宅に焼夷弾が落下し、爆発した瞬間、黄色なバターのよう
な糊状で、生まれだちの赤ちゃんのにぎり拳位の大きさのものが四方
八方へ飛び散った。初めてみた油脂焼夷弾。玄関、窓ガラス、柱、ト
タン、道路等に付着し、不思議にメラメラ炎を出し燃えだした。消そ
うと思うと、二、三メートル位の間隔位に焼夷弾攻撃され、手も足も
でない状態。焼夷弾の外形は円筒型で(目測)直径十二センチ、高さ
五十センチ位。
父が「防空壕へ必要なものを投げ込め!」と叫び、母は衣類の入った
柳行李等を運び出し、弟と二人で手伝い、最後は教科書、学用品等を
投げ込んだ。父が続いて「家は自分一人で守るけえ、布団を出して、
三人で避難せ!」と叫び、早速シングルの敷布団を取り出し、私が中
央で両手にてふとんを支え、母は片手に貴重品等を入れた風呂敷包み
をもち、片手で布団を支え、弟は両手で布団を支え、「二河川の山手
橋へ避難するよ!」と父に言った。
父は必死になって火たたきで、汗びっしょりで消火していた。近所の
人は何時、どのように避難したのか、全然わからない。お互いに自分
達のことが精いっぱいだった。一番最後に私達が避難したのだと思う。
二河川をめざして、親子三人の体を布団の中へかくしながら、避難し
ていると、荷物を両手にもって避難している人をあちら、こちらで見
受けられた。しかし、荷物をもち過ぎた人は、防空壕の中へ、一つ投
げ、二つ投げ、息をきらしながら、命がけで逃げていた。やっと山手
橋が見えるところまでたどりつくと、二、三千人位避難していた。
赤々と煙を出しながら燃えていた呉市に夜が明け、何時のまにか炎が
見えなくなった。
焼け跡の様子を、先ず、自分の目で確かめると共に、父を探しに行く
ことを母と弟に話し、承諾を得て、呉市中央公園に行き、そこで呉市
全土を見わたした。
炎が建物を全部なめつくし、焼け野原になり、焼けこげた木材が、あ
ちこち、くすぶっており、様々なものが瓦礫化し、廃墟となっていた。
コンクリート道路の中央を歩くと、まだ熱い。
やっと自宅に着くと、全焼で焼け残った家は全然なかった。衣類や学
用品等を投げ込んだものは、みなくすぶっていた。あたり見わたす限
り人影は全然なく、父の姿も見えなかった。うんざりしながら、山手
橋へバックしていると、不思議に父に出会った。父が「無事でよかっ
た。・・・全力を出して家を守ったが、駄目だった。」と残念そうに
語りかけた。家族揃って、怪我なく再会できた時は深い感動で一ぱい
だった。
和庄方面では、防空壕で、たくさんの人が煙に巻込まれ、ガス中毒死
されたことを聞いたが、自分の目では死傷者はひとりも見なかった。
数日たって、夜になると、焼け野原になったあちら、こちらで、青白
い炎が燃えだした。死体が瓦礫の下になって、「燐火になったのでは
なかろうか?」と思うと寒気がするほど「ゾー。」とした。
八月六日、長男は広島の原爆投下により戦死。八月七日、広島市へ入
市。広島は呉と比較できない位、被害甚大。広島市全体が焦土化して
いた。背中の皮が丸ムゲで、パンツの方へたれさがり、腕から指にか
けて、皮膚がムゲて、指先にたれさがり、悲痛な声を出して泣いてい
る人がいた。
猿猴川をのぞくと、満潮で数えきれない程の沢山の死体が浮いていた。
比治山橋では学徒動員の死体が百メートルくらい並べられ、中には手
足がじわりじわり動いているのを見た。看護婦が数人懸命に世話をし
ていた。
電鉄前では牛車がひっくりかえり、牛がさかさまになり黒こげになっ
て死んでいた。市工校舎は爆風で倒れかけ、電線もグチャグチャにな
り授業はできそうにない。まさに生き地獄で前途が真っ暗になった。
戦争の悲惨な事実に目を向け、人権尊重、人間尊重の教育、更に平和
教育を重視し、環境汚染、人類の破滅を防ぐ核廃絶を全国民一致協力
して、行動で示した

目次へ


八.戦争と私

               中村 和枝
               (安芸郡坂町中村十一四十八)

(沖縄戦の後に生まれた言葉は「命どう宝」であった。呉空襲を体験
した十六歳の少女の心にわいた言葉は「命が財産」であった。五番町
小学校あたりでの呉空襲と空襲後のようすを、日時を追って心情でつ
づる。)

昭和二十年X月X日
その日珍しく海軍の兵隊さんが大勢上陸していた。当時、軍のことは
秘密である。私は連合艦隊が入港したのではないかと思った。
近所に山本貴司(五歳)誠(三歳)睦チャン(七ヵ月)三兄妹がいま
した。三人の父親は航空母艦瑞鶴に乗っておられました。その時すで
に瑞鶴は撃沈され、名誉の戦死をされていました。家族にはまだ知ら
されていません。
「ボクのお父チャンは明日上陸するんだ」と何も知らない兄弟はそう
言って喜んでいました。母の背中の睦チャンは青空を眺めてニコニコ
笑っていました。私は泣くまいとガマンするのが精一パイでした。
「お父チャンは明日帰ってくるのよ、いい子して待っていようね」こ
れが親子の対話でした。父の顔も知らない睦チャン、今どこにどうし
ているのでしょう。
二十代の若い若い未亡人です。再婚もせず三人の子供を立派に育てら
れたと風の便りで聞いておりました。

(空襲体験) 昭和二十年七月一日
呉方面に三目標B二九敵機襲来。ラジオ放送を聞くやいなや空襲警報
のサイレンと共にパラパラと火の雨が降ってきた。
防空頭巾、救急袋、当時枕元において寝ていました。着のみ着のまま
外に飛び出た。皆家族の名前を呼びつつ廻りを見ると、貴司君、誠チャ
ン、睦チャンの家族がうろたえていた。誠チャンはおばあちゃんがお
んぶし、睦チャンは母の背中、貴司君はふるえながら母親と手をつな
いでいた。
ぐずぐずし後を振り向くと焼け死んでしまうのです。私のすぐの姉が
貴司君をおんぶし一緒に逃げました。子供の母親と私達は隣同志でお
姉ちゃんと呼んでおりました。
敵の落した照明弾で道は明るく、それでも女子ばかりです。男の人は
警防団で皆出てゆくのです。どこへどう逃げてよいやら見当がつきま
せん。土壇場の人間の知恵とでも申しましょうか、広い所、広い所へ
と逃げて行きました。
町の真中で広い所といえば学校しかありません。市立女学校、五番町
小、県女、私達が逃げたあと焼夷弾が落ちるのです。
二河公園も人で一杯でした。横穴の防空壕もありましたが一パイで入
れてくれません。
呉はすり鉢型なので、山手を先に焼夷弾を落されては市内の人は逃げ
場がありません。公園の松林に立っていると、B二九が頭上を走る時、
生きた心地はありませんでした。
私の家族、貴司君一家、皆無事だったことが喜びでした。二河川の土
手で命拾いをしました。
七月二日午前七時頃 
一夜明け、空襲警報解除のサイレンが鳴り、さあ、これからが生き地
獄です。
家族を探すのに右往左往、私達も近所の人を探し歩きました。公園を
歩いていると、若い女の方が足の方が血だらけで歩いているのです。
母が「あなた足を怪我しているの」と尋ねると、その方は丁度空襲の
時お産をしていた、「赤ちゃんは」と聞くと「置いてきた」、後は声
にならず泣きくずれました。それを聞く私達もどうしてあげることも
出来ずボー然としていました。戦争の悲劇です。
七月二日午前十時
共済病院から入院患者を救出している。病人は煙に巻かれたのか顔色
は白く、虫の息のようである。側で二,三人の友達が泣きながら「寝
たら死ぬぞ、寝たらあかん、寝たらあかん」と病人のホホをたたいて
いた。
その時近所のおばあさんに出逢った。そのおばあさん方は下宿屋だっ
たので、海軍工廠の工員さんを下宿しておられました。
その方が言うには「空襲警報のサイレンが鳴り焼夷弾がバラバラ落ち
てくる、二階から下りて見ると、おばあチャンが腰を抜かして、立つ
ことが出来ない状態である。家族に「おばあちゃんどうする?」と言
うと、「ホットイテ」と言って逃げたという。誰も連れて逃げる者も
いない。おばあちゃんをホッテ逃げることが出来なかった。」
防火用水をバケツで二.三バイ、体にかけても火力が強いので、すぐ
着物が乾くのです。公園につくまで二.三回水をかけた。防火用水が
二人の命を助けてくれました。
話す人聞く人、私たちも涙で顔はぐちゃぐちゃです。家族、友と出会っ
た人、「あんた生きてたの」と後は声にならず、ただ抱き合って泣い
ていました。
七月二日午後十二時
二河公園に救援隊、トラックでおむすびが届きました。ま真白の銀飯
です。その時のおいしかったこと忘れることは出来ません。昭和十九
年、二十年頃、銀飯食べた事がなかったように思います。
一度、我が家に帰って見ました。何もありません。全部灰になり柱が
燃えていました。最後の見おさめです。悲しかったです。でも戦争に
勝つためならしかたない、家が焼けたと言って泣く者は一人もいませ
んでした。むしろ生きてたと言うことの方に皆泣いていました。
我が家は今西通り、住友銀行の筋でした。岩方通りを歩いていると、
道端にセーラー服の女学生、風船玉の様に膨れ上がっています。その
隣は性別も分からぬくらい黒焦げの死体があった。親でなければ出来
ないことです、我が子と分かったのでしょう「熱かったろう、苦しかっ
たろう」と遺体にすがりついて泣いて居られました。
私たちも言葉にならず、ただただ合掌のみでした。親子でも一秒の違
いで逃げ遅れたら皆死ぬのです。
子供にほっといてといわれ、他人に救われ助かった親、逃げる時、親
がいないと言って探しに帰り、帰らぬ人となった友、堺川に逃げ、川
の水が熱くなり、それでも上に登られず胸までつかって助かった友。
八幡通りか清水通りの横穴に避難した友、中は煙に巻かれ息も出来な
い状態になった。中の人は「苦しいので外に出てくれ、外に出てくれ」
と叫ぶ。出口の人は「あの火では外に出られない」という。友はもう
駄目だと思い、持っていた日本手拭を壕の水でぬらし、口にあて時を
過ごしたと言う。ふと気が付いてみると自分は生きていたのです。壕
の中は煙で一杯である。その中を友はフラフラで脱出したと言う。手
拭と地下水が友の命を助けてくれた。
七月三日
空爆から家族バラバラの生活です。
何はなくとも軍需部に行かなくてはなりません。本部を見て驚きまし
た、見事全滅です。軍需部は海軍の台所です、衣類、食糧を補給する
大きな大きな大きな倉庫が一夜の内に、兵器工場の方も焼失していま
した。
私はその倉庫だけは倒れないと思っていましたから、二重のショック
でした。それでも戦争には勝つと思ってました。教育の恐ろしさとで
も申しましょうか。
私と姉(二人軍需部に行っていました)寝るところがありません、す
ると班長さん(職場のお母さん)が私の家に泊まりにおいでと言って
下さいました。地獄で仏にあったような気持ちでうれしかったです。
一番困ったのは着替えが一枚もないのです。一日目は上着とモンペを
洗い、二日目は下着を洗うのです。夜空襲になると、その濡れた衣類
を着て逃げていました。
何も持たない私たちは班長さんの所へ余り長居は出来ません。四、五
日過ぎて女子寮に入所しました。吉浦の方に近い新宮というところで
した。被服工場も中山小学校に疎開しました。
毎日花とつぼみの若桜の唄を歌って通っていました。
呉は軍港だったので一般市民、学生、軍属、皆軍人教育だったように
思いました。防火訓練は鬼畜米英、ルーズベルト、チャーチルの顔を
書いて高くつるし上げ、水をかけるのです。男女問わず同じような訓
練でした。また、それが当たり前だと思っていました。
そうしている間に母が疎開していた自分の着物を持ってきてくれまし
た。着物はモンペ、浴衣は下着、寮生に原型を借り、みな手縫いで自
分で縫っていました。
お母さん有難う。親孝行もせず、あの世へ行ってしまいましたが、心
の中では手を合わせて居りました。
これだけ苦しい生活をしているのに、まだパーマをかけるな、おしろ
いは付けるなという上司(軍人)の命令です。欲しがりません勝まで
は。
八月十五日終戦を迎えました。
貴司君の様な戦争遺児、戦争未亡人、特攻隊で息子を亡くされたご両
親。戦死の広報を受けた時「セガレよ、よくやった」と涙一滴流さず、
心の中で泣いておられたお姿。
私の家がちょうど駅前の中心地だったものですから、海軍の水兵さん、
兵曹さんが近所に下宿しておられ、上陸されたとき、灯火管制の下に
私たちとトランプをして遊んでいました。軍の事は秘密ですので、出
撃前夜当日は、一寸お酒に酔ったようで、菊水隊、敷島隊、若桜隊の
白い鉢巻きを締めて、こんな唄を歌って出撃されました。
  タイの娘に振袖着せて  日本娘に仕立ててみたら
  一寸似てますあの横顔が  故郷の妹にウリ二つ
故郷の妹は母のことではなかったでしょうか。当時そんなこと言えま
せん。この方たちのご苦労を思うとき、私の苦労、目のホコリではな
いでしょうか。
皆戦死されました。潜水艦の乗組員です。
戦争中の海軍、戦後の海軍、私なりに見てきました。戦後軍人で身を
立てて暮らそうと思った人は、男泣きに泣きながら軍服を焼いていま
した。
戦争は二度とあってはなりません。子供の親になって始めて分かりま
した。私が十六歳、兵隊さんは二一,二二歳くらいと思います。
戦災にあった人、戦災を免れた人。私たちは七月二日、おむすび三個
もらっただけで今の様に衣食住の補給はありません。今の日本をここ
までにしたのは大正、昭和の一桁の人ではないでしょうか。その時私
は命が財産だと十六歳で思いました。いま六十六歳ですが、あの時の
方がしっかりしていた様に思います。今の様にお金があり、物資が沢
山あれば人間の心が失われつつあります。心はお金で買えません。

目次へ


九.忘れ得ないあの日

                沖原 佳子
                  (呉市西畑町一ー三十八)

(防空壕の中で動く風は、死へと誘う風だった。その風を遮り、生を
与えてくれた人がいた。
女子挺身隊での生活の日々、寺本公園下の防空壕で、死ぬ前の「君が
代」を唱った。生きて出たとき飲んだ水は・・。)

昭和二十年七月一日夜から二日早暁にかけての、あの異様な体験を私
は一生忘れる事が出来ないだろう。
私は十九年女学校を卒業と同時に、第一次挺身隊として、呉海軍軍需
部会計課に配属され、一年余り、経った頃だった。
私達は、露ほども日本の勝利を疑わず「欲しがりません、勝つ迄は」
を合言葉に、モンペ姿で、一生懸命、通勤していたのだった。
戦争も末期で、相当、戦況は不利になっていた筈で(私達は全然知ら
なかったが…)毎日の様に、警戒警報のサイレンが鳴り響く状態が続
いていた。
七月一日の夜、もう寝入っていて、何時頃だったかは判らないが、又、
警戒警報が発令され、サイレンが鳴り渡った。
いつもは、それから暫くすると「警戒警報解除!!」と、メガホンを
持った警防団の人が大声で知らせて歩かれるのが常だった。
が、その夜の様子はいつもとは違っていた。間もなく、サイレンが鳴っ
ては止まり、又鳴っては止まりを十回位繰返す、”空襲警報”の不気
味な音が鳴り響いたのだった。
”今夜は、いつもとは違う!!”と緊張しかけた時”パリ、パリ、パ
リ”と何か弾ける様な音がして、窓の外が急に明るくなった。
慌てて窓を開けて見ると、西の方の空がまるで昼間の様に明るくなっ
ている。
照明弾だった。当時は、「燈火管制」という事で、各家が電燈に黒い
布のカバーをつけ、窓には黒っぽい布を下げて、絶対に窓から灯りが
洩れない様に指導されていた為、夜は、街中が真っ暗な筈だった。
「危ないぞ、空襲だ、逃げろ」当時、同居していた従兄の、上ずった
声が聞こえた。
数日前、呉海軍工廠が敵機の来襲を受け、従兄は、空襲を体験したば
かりだったのだ。
従兄の、その声を聞いた途端、何か電流の様なものが、私の身内を走っ
た。 夢中で、そこにあった何かを掴むと(モンペだった)だ、だっ
と皆で階段を駆け下りた。
急ぎ足で、家から七、八分位離れた所にある防空壕へ着くと、あちこ
ちから集まって来た人々が、どんどん入口から入っていく。
防空壕の中はもう一っぱいの人で、あとからあとから集まってくる人
達が入れ切れないのか「もっと、中へつめてくれ」と、大声が聞こえ
る。「押すな、子供が押しつぶされるぞっ」「早く入ってくれ」と、
声が飛び交い、人々は押し合い、まるで巨大な満員電車のような状態
だった。
間もなく「焼夷弾が落ちたぞ、家が燃えだしたぞオ」と、大きな声がし
た。
それまで、空襲の話は、よく聞いていたものの、まさか自分達の町が
と、思っても見なかった。いま、まさしく、呉が燃えているという。
頭の中で、何かがぐるぐる廻っていた。
そのうち、「防空壕へ火がついたぞ−っ」という叫び声が聞こえた。
防空壕は、当時「よう地」と呼んでいた丘(今の寺本公園)の下を、
コの字型に掘り抜いたもので、壕の入口のすぐ近くに迄、家々が立ち
並んでいたのだった。
防空壕の中は、まるで煙突が火を吸い込むような状態で、熱気と煙が
入ってきた。
熱かった。壕の中を動く風は、まさに地獄の風だった。体中の水分が、
みな出てしまうのかと思う程、汗が止めどなく吹き出てくる。
周りの人達は、皆だんだん口数が少なくなっていった。そして何時の
間にか、体を押しつけあったまま、座り込んでしまっていた。
と、どこからか、”君が代”を歌う声が聞こえて来た。それが、だん
だん広がって周りの人達皆で”君が代”を合唱した。
私も唱い乍ら、目の中が熱くなり、涙がこみ上げて来た。皆、泣き乍
ら歌っていたようだ。
歌い終わったあと、壕の中はし−んと静まり返って、皆だんだんに、
眠り込んでしまったらしい。
私も次第に眠くなって来た。暗闇に馴れた目で見廻すと、人々は頭を
たれて、または人に寄りかかって眠っているらしい。ふっと”この侭
眠ったら、死ぬんじゃないかしら”という思いが、私の脳裡をかすめ
た。
”こうして眠り乍ら死ぬのなら、「死」なんて、そんなに辛いものじゃ
ないな”と、おぼろげに考えていた時、私の目の前に警防団の人が、
四、五人立って居られるのに気がついた。
顔を上げた私に、その中の一人の方が水筒の水を蓋に入れて差し出し
て下さった。
美味しかった。眠ってはならないと思った私は「顔を叩いて下さい」
と頼んだ様である。
その人達が立ち去られ、周りが皆、眠った様な中に座っていると私一
人起きているのが少し怖くなった。
その時である「佳ちゃ−ん」という声がした様な気がした。「佳ちゃ
−ん」...確かに私を呼ぶ母の声だった。母が遠くで私を呼んでい
たのだ。嬉しかった「は−い。ここに居ます」返事をしては、暫くす
ると又眠くなる。
又呼ばれる。何度か、それを繰返したあと、”母の所へ行こう”と私
は立ち上がった。
周りで眠り込んでいる人達を踏まない様、そろそろと、母の声のした
方へ歩いて行き、やっと母の所へ辿りついた。
二人で話し乍ら、どれ位、時が経ったろうか、向うの方で何か声がし
て、懐中電灯がぐるぐる廻されている。
「生きている人は出て来ーい」そう叫んでいる声が聞こえた。「はー
い、ここに居ます」大声で返事を返したが、周りの人達は皆、起き上
がる気配がない。
母と二人で立ち上がって歩こうとしたが、体中の力が、抜けたようで
歩けない。
二人で肩を組み合い、周りの人達を踏まないよう気をつけ乍ら、よろ
よろと、声のした方へ歩いて行った
壕の外は、もうすっかり、夜が明けていた。そして、私達の目に飛込
んで来たあたりの状況は・・、そこにあった筈の家々がない。
何にも視界を遮るものの無い一面の焼野原だった。
壕の入口近くには、壕内から運び出されたと思われる人達がずらりと
寝かされていた。 
中には暑さで着衣を脱いでしまったらしい人も居る。そして、全裸の
ままけいれんしている人も・・・
私達はそこにしゃがみ込んでしまった。その時だった。私達の傍に駆
け寄って来た人がいた。弟だった。弟は壕の入口にある家が焼け出す
前に、壕を飛び出したらしい。
弟の顔を見た途端、猛烈に咽喉が渇いているのに気がついた。それを
言った私達に、弟が運んで来てくれたのは、焼け跡で拾ったボコボコ
のバケツに入った、薄緑色をした防火用水の水だった。
でもその美味しかったこと。身体中に沁み込で行く様。
”敵の機銃掃射がある”とデマが飛んで、間もなく山の方へ逃げ出し
た私達は、その途中、黒焦げになった一家の死体も見たし、目から火
を吹き乍ら焼けている遺体の傍も通った。
今、思い出しても胸の痛くなる様な情景を沢山、沢山見ることになっ
た。
我家も何一つ残らずやけてしまって、母子家庭だった私達は、間もな
く迎えた終戦後の混乱期を、苦労しながら何とか生き延びたのだった。
母は、現在九十三才、健在で弟一家と暮らしている。
日本は 現在世界でも豊かな国と言われ、平和という事の有難さを感
じないでは居られないが、しかし今も戦争が続いて罪もない人々が苦
しんでいるニュ−スも聞く。
今年、戦後五十年を迎えたが、私達の体験せざるを得なかった戦争の
残酷さ、悲惨さを遠い過去の出来事として、記憶の彼方に風化させて
しまっては、絶対にいけないと痛切に思うこの頃である。

目次へ


十.呉空襲直前の状況

              松岡 清徹
                (呉市本通一丁目十二ー四十一)

(敵機が呉上空を飛来していた。だが、灰が峰の砲台は黙したままで、
灯火管制下の市内は真っ暗だった。警戒警報もすぐには鳴らなかった。
瞬間、火の幕の中を人は右往左往した。空襲記録を確かめたい。)

目が覚めたのは七月一日夜半十二時ちょっと前で、外は灯火管制で真
暗、物音一つしなかった。
しばらくすると西(広島)方面から飛行機のくる音がして来ました。
敵機?と思ったが警戒警報も鳴らず、音がだんだん呉に近づいて来る
のに灰ヶ峰の砲台も発砲しません。
しばらくすると東(広)方面に行ってしまいました。
「ア、味方機が警戒しているのか?」と思っていますと、今度は東方
面に行った飛行機か?呉上空を西方面に飛んで行きましたが、灰ヶ峯
の砲台も沈黙したまま。警戒警報も鳴らないので「夜おそくまで味方
の飛行機が警戒しているのだな」と胸をなでおろしたと思ったら、ま
た西方面から飛行機の来る音がしましたので、「今夜は特別警戒がさ
びしいのだな」と思った瞬間、バリ バリ バリと大きな音がして、
第一弾が和庄方面に投下され、一瞬火の幕を張ったようになり、その
火の幕の中を人が右往左往しているのがよく見えました。
直ちに正服を着用し呉鎮守府へ向かって飛び出しました。
呉海軍病院(今の国立呉病院)前にさしかかるとバリ バリバリと大
きな落下音がして第二弾が落ちました。
呉空襲記四十四頁に記載してあることと、私の体験を比較すると、
亀山神社左側「和庄」地区にキツネ火が連なるように燃えはじめ
た。
  午後十一時五十分ごろから焼夷弾投下がはじまる。
  すでに和庄方面から火の手が上がり。
などは小生の記録と同じだと思います。
小生の記録と異なるのは、第一弾の前、敵機が往復半偵察したことと、
その間、一回も警報がでなかったこと、灰ヶ峯の砲台が射撃しなかっ
たこと、である。

目次へ


十一.戦争と私の人生

            島居須美枝
           (東京都江戸川区東葛西一ー十五ー十)

(呉空襲で多くの犠牲者を出した明法寺下の横穴式防空壕で運命の明
暗を見た。赤土にワラを入れた厚いドアが命を救ってくれた。灯油を
かけ、多くの遺体が焼かれた跡は、何日経っても黒く残っていた。)

戦後五十年忘れようとして忘れられない光景がある。
一つは、私達の逃げ込んだ防空壕の隣の壕の入り口にまで逃げて来て、
亡くなった赤ちゃんを抱いた若いお母さん。
もう一つは、あるところで焼死した遺体を、明法寺の前に集めて山積
みにした数々。
数十体の遺体の一番上に、白と黒のカスリを着た六才くらいの男の子。
九才の私にとって数十の遺体をみた中の今も目に焼きついて忘れ得な
い光景である。
遺体の山にムシロをかけ、灯油をかけて、十ぱ一からげにして兵隊さ
んに焼かれた。何日経っても、焼いた跡がどす黒く残った。二千人位
焼死したという呉の戦災は、七月一日の深夜だった。
私達が壕へ急ぐ時、もう何機ものB二十九が、低空でボンボン焼夷弾
を落としていた。
あちこちで爆発して、家がドンドン燃えていた。私達の防空壕は、赤
土にワラを入れた厚いドアだった。
壕の向い側は一米もあかないで、木造の二階屋が並んでいた。皆兵隊
の下宿だった。
私達の壕へも家が焼け、煙が入って来た。中に防火用水があり、何度
もタオルを濡らしては鼻を押えた。息ができない位煙かった。やっと
爆撃がおさまったらしいと聞き、そっと外に出た。
何ということだろう。両隣の壕の戸は木だったそうで、火が皆中へ入
り全滅していた。そこで若い母子をみたのである。
外は焼け野が原、自分の家の跡も分り兼ねた。どこでどうなったのか、
家を出る時は絶対履いていたのに、誰もが素足だった。まだくすぶっ
ている瓦や木材の上を、私達は飛び跳ねるようにして歩いた。
父が見つけた我が家から、茶碗とか、鍋とかの日用品を掘り出した。
使えるものは、殆どなかった。一夜にして、家も家財も灰、一体どう
してこうなったのだろう。誰が補償してくれるのだろう。
明日からの住まいに父は奔走した。バラックが出来る迄、私と、すぐ
上の姉は長姉の嫁ぎ先で暫く世話になることになった。父から、何と
か家が出来たから、帰呉するよう連絡があり、八月六日、長姉に連れ
られて大野駅へ着いた。
長姉が母に渡す土産を忘れたから、駅で待つようにいわれ、私達は一
列車遅らせた。もし予定通り列車に乗っていたら、私達姉妹は、原爆
にやられていたのである。何という幸せな忘れ物であったろう。
防空壕、原爆、私は二度命拾いした。父の作ったバラックで、家族の
生活が始まった。
進駐軍が上陸するというので、父は大きな門を作り、上に太い釘を逆
に打って娘たちを守ってくれた。沢山の空地を利用してじゃがいもや
ホウレン草、さつまいもを作って収穫を楽しんだ。必要に迫られての
自給自足だが、吾妻小学校へ間借りしたこと、遠い道のりを道草しな
がら結構楽しい通学だった。わが本通小学校が新築されて、お礼の言
葉を読んだ私は、実に嬉しかった。やはり我が校はいいものだ。
中学、高校を平和に過ごせた。小学校の時から教師になりたかった私
は希望に胸をふくらませていた。しかし、高二の五月、父が亡くなっ
た。
医療器の卸をしていた父は、戦災で一切商品を無くし、何の補償もな
く、カツギ屋をやったりして、一生懸命私達を守ってくれた。
父の死で、私の生活は一変した。高校は奨学金で、何とか卒業できた
が、当時はバイトも殆どなく、何の技術も持たない母が働ける場もな
かった。
大学進学は到底無理だった。母の所へ「力があるのだから進学させて
上げて下さい」と、二度もみえた先生の前で母は「不甲斐無い親です」
とオイオイ泣いた。
戦争がなければ、父は絶対私を進学させてくれただろう。力のない母
を悩ますのは辛く、明るく私は進学を諦めた。
高卒後、尾道の義兄の甥の面倒を見ながら、尾道の図書館で「新平家
物語」などを読んだ。赤ちゃんをオブって、図書館に通う感心な娘さ
んだといって、司書の方が主人を紹介して下さいました。
二年後、呉に帰り、ちょうど、広島県職員の応募があり、受験して受
かり、公務員として広島県庁に勤めました。
尾道にいる間、幼友達の越智さんが、井上さんと一緒に見えて、お父
さんの会社へ勤めないかと言って下さった友情を、今も感謝しており
ます。
公務員に禁止されているアルバイト、越智さんと私の家で、小学生の
勉強を見てあげて、生活費の足しにしました。
昭和三十年、尾道で挨拶を交わしただけの主人と文通して、三十六年
結婚し、今はとても幸せに暮らしています。
主人も、父が宝石商をしていた朝鮮から、一人千円ずつもらって引揚
げ、次々兄弟や母を亡くした苦労人なので、とても優しい人です。と
ても思いやりのある人です。
戦争であきらめた教師も、四十の手習いで四十歳で洋裁専門学校へ入
り、教師の免許をとり、生徒さんと楽しく教室をやっています。
洋裁は手先も使いますが、結構頭も使います。足りない生地に型紙を
色々に置いて、どうしても作りたいものを作ろうというのは、パズル
のようにスリルがあります。洋裁は、私のいい生涯教育「いつでも何
処でも一人でも」の言葉通り、老いても楽しめると自負しています。

目次へ


十二.(妙子さんのお陰で)

              塚野 政秋
             (熊本市御幸笛田町三五九ー十)

(徴用工として呉工廠水雷部に勤務中に体験した呉工廠の爆撃。市街
地空襲では、寺本公園下の防空壕での避難のようすを地図で説明して
いる。煙に巻かれた防空壕で、死ぬ寸前を助け出してくれた妙子さん。)

私は、本通九丁目〜十一丁目に向かって右側の山手の方へ十分位の所
と思いますが、住所は寺本町二丁目の船波方(女主人−当時五十歳位
−名前は忘却)に下宿しておりました。家族は船波茂(十九年頃現役入隊)
、船波妙子,同宿人一名、通称松ちゃんと呼んでいた、姓名は忘れま
した、当時三十歳位でした。
昭和十六年四月、第四次徴用工として(大阪より)海軍工廠水雷部器具
工場へ配属され、日夜(二交替十二時間勤務)生産に励んでおりました。
十八〜十九年頃には先輩、同僚、後輩達が召集、現役と一人減り二人
減りと人手不足が生じ、糸崎方面から女子挺身隊(十五〜二十二歳位)ま
た四国徳島県から年配の方が動員され、馴れぬ手付きで生産に勤めて
おられました。末期には市内からは旧中学生、女学生、小学校高学年
も学徒動員され生産に参加して来ました。
二十年の初期頃、私は、音戸の島へ船で重要器具等の疎開を致してお
りましたが、海上には戦艦伊勢を始め、沖合には偽装された航空母艦
等数隻が浮かんでおりました。また工場横の岸壁には、駆逐艦を始め
潜水艦ロ号、ハ号などがいつも碇泊しておりました。
二十年前後と思いますが、上空をB二九が飛行機雲をなびかせながら
通過するようになりました。空襲警報と同時に最初は避難しておりま
したが、一向に爆弾投下の気配もないので、いつも上空を眺めて爆弾
は積んでないのではないかと話し合っておりました。軍の方でも最初
は高台の要塞から高射砲を発射しておりましたが、とどかず以後は砲
撃を見たことはありませんでした。
二十年三月十九日昼勤時、空襲警報と同時にロッキード(双胴体の戦
闘機)機による襲撃を受けました。低空音のグゥーンという音とともに
バリバリバリッと工場の屋根に弾丸の当たる音、必死の思いで地下防
空壕へ飛び込みました。これが機銃掃射だと判ったのは暫くたってか
らです。この時ほど恐いと思ったことはありません。その時一名工場
の工員さんが足を負傷しました。
その後は戦闘機の攻撃はありませんでしたが、B二九は相変わらず飛
行機雲をなびかせながら上空を通過しておりました。六月二十二日同
じく昼勤時に空襲警報の発令、例の如く空を見上げておりました。と
ころが黒い物が数個落下するのが見えました。と同時に(丁度台風時に
電線の音が唸るような)グーン、ビューンと異様な音がしましたので爆
弾と思い、二〇〇米ほど離れた所にある横穴防空壕へ飛び込みました。
外では大きな爆発音がして生きた心地はしませんでした。いつ落ちて
くるだろうかと、それこそ神に、落ちないようにと祈っておりました。
敵機が去って工場の方へ戻ってみますと工場横の道路は、一t爆弾で
小学校のプール位の穴があいており、威力のあるのにびっくりしまし
た。また工場は天井付近で炸裂し、屋根の大半が吹き飛んでいました。
地下防空壕に入っておられた工場長は顔を負傷されておられましたの
を覚えています。
また岸壁に碇泊していた駆逐艦、潜水艦は沈没(爆風にて)したという
ことです。実際にみておりませんので事実は判りませんが専らの噂で
した。帰途にある電気部の横には不発弾が不気味に建屋にもたれかかっ
ていたのを見ております。あれはどうなったかなと今でも思い出され
ます。
忘れられないのが七月一日夜半、下宿で寝ていた時、空襲警報で飛び
起きました。高台でしたので町の方を見ますと、点々と火の手が上がっ
ていました。上空では飛行機音がし、近くにもボトンボトンと落下す
る音が響いてきて、六角形の筒から火が吹き出していました。焼夷弾
だと思い女主人と同宿人は防空壕へ避難してもらい、私と妙子と二人
で消火に努めましたが、次々と落ちてくる焼夷弾でどうすることも出
来ず、近所の横穴防空壕へと(別紙の防空壕の略図、Aの入口から)妙子
と二人で飛び込みました。
Bの防空壕の扉を押しましたが満員のため入れず階段をおり@の方へ
避難、数名の方がおられました。時間がたつうちに段だんと壕内に煙
が充満しはじめて息苦しくなり、これでは危ないと妙子に声を掛けて
@の出入口に行ったところ、入口の布団並びに扉までくすぶっていま
した。また外を見ますと火の海で、必死の思いでAの方へ向かうため
階段の扉の引き戸をあけてAの出入口へと向かいましたが後から誰も
ついてきません。(普通の状態なら引き返して戸をあけるはずですが、
その時は自分だけが助かろうと必死だったと思います)後から妙子に話
を聞いたら、みんなが後からついてきたため押されて扉があけられな
かったそうです。
Aの出入口から外に出てみましたが火の粉は飛び散り、まだまだ火の
海でした。「入口の布団、扉とも火がつきくすぶっていました。冷静
さがあったら布団だけでも外に放り出したでしょうが……、布団の煙
が壕内に侵入したのが多かったと思われます」のでどうすることも出
来ずAの方の奥へ入っていきました。
真っ暗闇で手探りで進んでいきますと一名だけ入っておられましたの
で、お互いに名乗りあったのを覚えております。「海軍の上等兵曹の
方でした」。他に何を話をしたか覚えておりませんが、その内だんだ
んと息苦しくなってきて、その内に宙に浮くような気持ちになり意識
がなくなりました。
それからどれくらいたったか、遠くからかすかに私を呼ぶ声が聞こえ
て参りました。ふと気がつくと妙子の声です。明るい方へ這い出して
いくとやっぱり妙子でした。中に後一名(この方も助かる)おることを告
げて、私は外を眺めますと市街は丸焼けの状態です。
周辺では死体に抱きついて泣き叫ぶ身内の方、また身内を探しておら
れる方々と悲惨な光景です。@の防空壕でも数名の方が亡くなられた
ようでした。
私も相当藻掻き苦しんだのでしょう。ズボンの両膝のところはボロボ
ロに破れておりました。目は真っ赤に充血しあけられない状態でした。
また煙の吸い込みで息苦しく、呼吸するのが精一杯でした。
下宿の女主人と同宿人の松ちゃんは元気でしたので、四人で下宿の親
戚を頼って(阿賀の方から警固屋町の近くと思う)行くことになりました。
途中本通九丁目に交番がありましたが、その前の防火用水プールにも
五、六名の方がうつぶせになって亡くなっておられました。
翌日親戚の家からズボンをめぐんでもらい出勤、被災者は一時帰郷を
許可されました。その日、二河公園の方で炊き出しがあるということ
でしたので行く途中で、市内の至る所に死体の山が並んでおいてあり
ました。その時は無感動でしたが犠牲者の方々のご冥福を改めてお祈
り申します。
宮崎県都城市に帰郷、その時の被災で気管を患い療養中終戦を迎えま
した。私が今日あるのも、あの時の妙子のお陰と感謝いたしておりま
す。

目次へ


十三.機雷投下と空襲

             石田 桂三
           (茨城県日立市みかの原二丁目十五ー五)

(本通小学校横の市街地に落とされた機雷の処理を自宅の座敷からこっ
そりと見ていた。本通小学校付近での空襲のすさまじさ、熱風で息を
吸うのも気持ち悪い。明けて、学校へ行った私を見る先生の目には・・。


夜中、飛行機が落ちたような大きな音がしたとのことで、姉に起こさ
れた。警戒警報で他の者は起きていて、近所に時限爆弾が落ちたとの
ことで、寺西町の熊橋家(本通九丁目角のベビー服店の自宅)へ布団
等を持って、一家で避難した。近所の人も二十名以上位来ていた。
昭和二十年四月一日夜、本通九丁目でのことで、私の家は電車道りに
面した文具店で、私は小学五年になる前であった。
爆発予告時刻が一時間延ばしに何度も延ばされ、夜が明けたが何事も
なく、みんな自宅に戻った。その頃、父が我家の裏庭に白い異様な布
を見付けた。それは、地中にめり込んだ機雷の落下傘の部分が地上に
見えたものであった。
海軍から処理隊が来た。店の前は人だかりで、ロープが張られ立入禁
止となっていたが、前述の熊橋さん(中学二年)と共に、家族という
ことで家に入り、裏庭に面したガラス障子のすりガラスの透明部から
息を殺して、二〜三メートルの所で機雷を見た。白い筒状で、直径六
十〜八十センチ、長さ一.五〜二メートル位の大きさで、二階の屋根
の雨樋を少し壊しただけで、幅三メートルにも満たない庭(長さ数メー
トル)に平行方向に落ちていた。そばの二階座敷には私が寝ていたの
だから、家に当れば私の命は無く、まさに奇跡的な落ち方であった。
 機雷搬出のために、煉瓦塀を壊し、隣家の庭を通って、敷板の上を、
麻ロープで縛って何人かの兵達がが機雷を引張った。呉鎮守府長官も
視察に来た。
 この時、広・阿賀方面を含めて、一直線状に四発落ち、地上落下ゆ
え不発であったが家屋破損もあったようだ。
 数日後、私は母の郷里、安浦へ縁故疎開した。町場から来た者への
からかい、勤労奉仕の麦刈りや松の根掘り、教育勅語を毎日書く罰宿
題など、僅か四ヵ月の短い間に多くの体験があった。
七月一日は日曜日で呉に帰り、たまたま疎開先への汽車の切符が取れ
ず、翌日に発つこととした。その夜、空襲警報になり、店の一角にあっ
た防空壕に家族で入ったが、照明弾が落ち、体山斜面、古江町あたり
に焼夷弾が落ち始めたため、本通国民学校(以下、本通小と略)の東
方の横穴式防空壕に、母や姉妹と共に、父や兄より先に避難すること
にした。
家を出て数十メートル走った時、空からゴーッという飛行機の爆音が
近付いてきたので、持っていた布団を皆で頭の上に被り、よその家の
軒下に身を潜めた。自分が機銃で狙い撃ちされるように感じた。焼夷
弾が空を切って落ちる音がザーッと耳に響く。この時の恐怖感は私の
生涯で最も大きいものであった。
この恐怖感からか、母が壕の場所をよく知らなかったためか、いった
ん家へ引返した。持出す物をまとめていた父は、再度引返す積りで、
金庫も半開きのまま、家族全員を防空壕まで連れて行った。
本通小の屋根を突抜けて焼夷弾が落ち、その瞬間、教室の窓から火が
吹き出す。道端に焼夷弾の油が燃えている。すでに軒先に火のついた
家などの前を逃げた。
防空壕に着き、父は家に引返そうとしたが、兵隊達に危険だと阻止さ
れ、重要品の持出しも断念せざるを得なかった。後々まで、父はこの
ことを、とても悔やんでいた。
幅三メートル位か、比較的広い真暗な壕の中に、百人以上もいたよう
に思う。夜が明け、壕の外の広場で指示を待った。教科書だけを布袋
に入れて避難した女学生。戸板で運び出される他の壕の焼死体。焼け
ただれた手足の怪我人。皆あわれな姿である。私達の壕は安全であっ
た。
兄達と焼跡に行った。熱風が吹き荒れ、トタン板が舞う。たいらになっ
て、僅かに煉瓦塀の一部と石灯篭だけが突っ立っている我が家の跡。
熱風で息を吸うのが気持ち悪い。真黒こげの焼死体が這う形。
一、二年担任であった山田先生と出会い、赤い鼻緒のせんべい下駄の
私を見る眼には憐れみが見えた。
母の郷里、私の疎開先に一家は取敢えず落ち付くことになり、汽車に
乗るため、阿賀駅まで歩いた。西畑の交番横の炊き出しの大きなおに
ぎりが、米のない頃の空きっ腹にとてもおいしく、有難かった。
七月末、上畑町に家族全員で住み始めた。
八月六日、晴れた暑い朝、稲妻のような光を見、大きな爆発音をきい
た。二階へ上ったら、西の空に柱状の雲があり、中からもくもくと、
とめどなくピンクの雲が湧き出て、忍術か魔法の煙の塊に見えた。午
後になって、広島でガスタンクが爆発したと聞いた。人類史上、最初
の核爆弾であった。
戦時中のことで他に思い出すのは、昭和十八年頃、潜水艦で来たドイ
ツ軍人達が、海軍の下士官の案内で夜の街を散歩し、我が家の前を通
り、初めての西洋人を見たこと。まだ、灯火管制のない、明かるい街
であった。
昭和十九年頃は、本通小の講堂が海軍兵舎に使われ、年輩の応召兵が
入魂棒の体罰を受けるのを見て、その上官を憎く思ったりした。この
頃であったか、本通小卒業生、宮原田賢氏の特攻隊戦死が報じられた。

戦争は、家屋敷、店や倉庫の商品など、我が家の全財産を一夜にして
灰とした。物質的なものの儚さ、精神的なものの価値、戦争のおろか
さなど、考えさせられる。家族全員の無事が大きな幸せ

目次へ


十四.警防団

               藤原 誠
                (呉市東川原石町一ー二)

(撃ちてし止まん、今に神風が吹くと思っていた。しかし、いかに空
襲が激しいものか知らされた。焼けなかった海岸通りから、警防団員
として呉市街の空襲状況を的確な目で見ていた。警防団はもう要らな
い。)

昭和九年満州事変に端を発した戦は、年と共にその戦域を拡大して、
そのとどまる所を知らなかった。戦線の拡大に伴い、国民拳げての戦
争となった。
戦域は満州から中支、中支から南支、東南アジアと移り最後には、米、
英をも敵に廻しての戦となった。
一億一心打ちしてし止まぬ大和魂は意気軒昂、国を挙げての戦は日本
軍の行く所、軍艦マ−チで戦勝の旗を振っていた。
然し、戦が長引くに従い、広い戦線は先の方から崩れ始め、玉砕の声
を聞くようになった。勇敢なる日本兵も浮足立って後退を余儀なくさ
れた。
国民悉く今に神風が吹いて大日本帝国を救って呉れるものと信じて居
た。
昭和十六年街には自警団が設立された。
戦争に行かない男子は徴用工員として軍需工場に微用された。若き女
性達は女子挺身隊として職場にかり出された。街の商業関係に従事し
て居る人々は警防団員として街の秩序を守り、敵機の空襲から人々を
守る事を義務付けられた。
平素は病人、怪我人の応急処置から、街の婦人を集めてのバケツリレ
−に依る防火訓練、甚だしきは敵兵上陸を予想しての竹槍訓練まで、
事こまかに教えた。
今迄一度も焼夷弾攻撃の経験のない私は、如何に空襲の激しいものか
を知らされた。
時は昭和二十年七月一日未明のことであった。
けたたましいサイレンの音に目を醒した。今までのサイレンとは違っ
た感じがした。続いて空襲警報のサイレン。私達は飛び起きて電燈の
スイッチを入れると真夜中の十二時であった。今まで常時警戒警報が
発令されていたので電燈の光が外にもれないように黒い布のカバ−が、
どこの家にもつけて居た。これも警防団員の平素の指導であった。
私は海岸通三丁目の食糧営団海岸販売所二階に住んで居た。私の家の
家族編成は妻と五才、三才、八か月の三人の娘の五人暮らしだあった。
昭和二十年になってからは度々空襲警報が発令されていたので、大人
も子供も訓練が足りて、動作は早くテキパキとして居た。
長女はモンペを履き、防空頭巾を被ると妹の世話までするようになっ
て居た。家内は支度をして三女を背負い、貴重品袋をもって出るのが
役目。
真夜中に飛び起きてモンペをはき、防空頭巾をかぶり、二階から暗い
階段を降りて行くのは大変だった。
私は警防団員だったから警防団の服を着て、ゲ−トルを巻かなければ
ならぬので一番ビリであった。
子供達は東川原石町の父の住む家の防空壕に入りに行く。私はそれを
見届けてから、警防団本部に走る。私が本部に着く前に、B二十九よ
り街の中天高く照明弾が一発落された。一瞬にして呉の街は真昼のよ
うに明るくなった。私は走った。
この時始めて呉市が焼夷弾攻撃を受けたのだと体中がジーンとした。
照明弾の光が少し薄れた頃、B二十九 一機が倉橋島方面より飛来し、
宮原、和庄、長迫方面に焼夷弾を一直線に落しながら北上した。青白
い火の線が出来た。火の線は燃えるものがないのか?人の手で消して
居るのか?所々点となって残った。
次の一機がその点をつなぐように焼夷弾を落して行く。今度は最初よ
り高く燃え上がる。B二十九の空襲間隔は三分おきのようである。続
いて三機、四機、五機、西へ西へと縫うように落して行く。火勢は天
高く燃え始めた。
焼夷弾攻撃は段々呉の中央部に移っていく。もう本通も中通りも燃え
始めたようだ。周辺の山々もくっきりと見え始めた。
八分団本部の東には二河川が流れている。二河川の東には呉駅、軍需
部が並んでいる。呉駅も燃え始めた。軍需部も燃え始めた。
呉の街は火の海と化した。火は猛り狂うように燃える。軍需部も火柱
が立ち始めた。軍需部の大きな建物も火に包まれた。軍需部の中には
油の入ったドラム缶があったのか、火のかたまりが中天高く飛び上が
り、炸裂して四方に飛び散る。何本も何本も飛び上がっては火勢をま
きちらす。
焼夷弾攻撃は西に西に移り、二河川を渡り、西二河川から西本通、三
条通と我が八分団内に移って来る。分団の消防部の人々は各々散って
行く。
B二十九の攻撃は八〇機を数えた。東の空が白む頃、空襲は終わった。
午前四時だった。四時間に亘る空襲で呉の街は無くなって居た。
我が八分団においても可成りの家が焼けた。人的損害、死者一名、怪
我人一名と聞いている。
呉は地理的に高地部が多く、横穴式の防空壕を沢山作って居た。和庄・
登町方面は、防空壕に入った人は防空壕が煙突の役目をしたので、中
に避難した人は酸欠の為に殆んどの人が亡くなったと言う。折角作っ
た防空壕がこんな事になるとは誰も知らなかったようである。
呉市の死者の殆どは防空壕の為だと言う。
八分団にも沢山の横穴式防空壕が掘られていたが、空襲を受けなかっ
たので良かったと思う。翌日から焼け出された人々は、焼け跡に行っ
て鍋、釜、食器類を掘り出して持ち帰って行かれる。その姿たるや破
れたモンペに疲労の色は濃く、みじめであった。
 あれから三九年、着るものに、食べるものに何一つ不自由のない時
代を迎えることができました。
 住むに家なく、着るに衣類なく、食するに食はない時代を生き抜い
て来た私たちは、今の時代を大切に、今の幸福をいつまでもいつまで
も続けたいと思います。
戦のない、警防団員のいらない平和を続けたいと思っております。 

目次へ


十五.劫 火 

            宇根内 京子
            (豊田郡安芸津町小松原七四八ー二)

(学徒動員で受けた呉工廠製鋼部での一トン爆弾の恐怖、不発弾が刺
さっていた。水を被り、やっと逃げた山手から呉市街を見た。すさま
じい夜空を焦がす火炎。空襲後の情景を思い出と共に語っている。)


昭和十九年六月、動員学徒として呉海軍工廠製鋼部鋳造工場へ配属と
なった。狩留賀、両城寮にそれぞれ一ヶ月ずついて、八月には宮原通
十二丁目に急造されたバラック建ての寮へと移された。
勝利の日までは、と鉢巻を締めて張り切ったが、鋳造工場の現場には
過酷な作業が待っていた。高い天井を唸りながら這うクレーン、高熱
の溶鉱炉、飛び散る火花、みんな初めて見る光景であった。黒づくめ
の作業服が支給され、疲労や空腹に耐えていたのは、お国の為という
使命感に支えられていたからだろうか。
昭和二十年春、すでに本土空襲のニュースは耳にしていたが、三月十
九日には艦載機による本格的な呉工廠攻撃の始まりだった。それから
は警戒警報、防空壕への退避の度数が増し、六月二十二日はB二十九
による工廠への集中的な爆弾攻撃があった。この日の第一波は午前九
時過ぎから、製鋼部を中心に砲熕部、水雷部へ約二十分間隔で大型爆
弾が投下された。
木型工場にいた私たちは技術将校や指導員に守られて壕の奥に避難し、
頭巾をかぶり顔をおおって息を殺してうづくまった。「こっちへくる
ぞー」の叫び声とともに大音響、猛烈な爆風で体中の空気が押し出さ
れたようで「ウェッ」とうめき、息の出来ない恐怖の連続だった。
やがて地響きや爆音も遠ざかり、空襲解除の声で壕から出ると、眩し
い真昼の光の中、入り口の至近距離にオフホワイトの一頓爆弾が、三
分の一程コンクリートの地表を突き破りめりこんだままで立っている
ではないか。ぞっとして震えながら、そっと横を通りぬけるなり、一
目散に鋳造本部へと走った。
翌日おっかなびっくりで木型工場へ出勤すると、既に撤去され埋め戻
されて一頓爆弾は跡形もなかったが、五十年を過ぎた今でも、地響き
と轟音が去った後の、寂とした真昼のあの一頓爆弾の姿は鮮明に脳裏
にインプットされている。
二階のデッキから見た隣接の砲熕部の物と思われる鉄製の大煙突が、
青空のバックにわが木型工場の屋根にスパッと突き刺さっていた。皆、
爆弾の威力をいやという程体験して声もなかった。心の奥で、壕入り
口の白い一頓爆弾が不発であったことの幸運に感謝した。私たちには
知らされなかったが、かなりの犠牲者があったのではないだろうか。
七月一日は夜勤だった。午後十時作業を終わり帰寮して床についた。
連日連夜の空襲に備えて防空頭巾と靴も身近に置き、着のみ着のまま
という姿で寝た。ただならぬ気配に目覚めた時には、地響きと断続的
に強い光が閃めいて何かきな臭い。照明弾だ、と防空壕を目指して窓
から飛び出した。もう外は爆音と叫び声とが渦巻いていた。大量の油
脂焼夷弾を浴びて、バラック建ての大空寮はあっという間に炎に包ま
れてしまった。
浅い横穴式の壕を熱風が襲う。「早く出て」先生の大声に飛びだした
ものの高い塀に阻まれて、後から炎は迫るし逃げまどった。
誰か転んで「お母ちゃん」と泣き声を上げてる。特徴のある声音に駈
け寄るなり、早くと励まして助け起こしたが、顔を上げると火の色ば
かりで人影はどちらへ逃げたやら。踏み倒された塀を二人でよじのぼ
り熱風からやっと逃れることが出来た。途中で見つけた防火用水で体
をぬらし合って山手へ走った。
冷えた山の気配に安堵して振り返ると、眼下に大きく長方形に燃えて
いるのが寮のようであった。濡れたままうずくまっていると民家の方
が毛布をだして下さりありがたかった。ふと故郷を思い空を見上げる
と、凄まじかった爆音もなく夜空を焦がした炎もおさまって、満月が
何事もなかったかのように皎々と澄み渡っていたのが忘れられない。
夜が明けて、生き残ったのは二人だけかしらと話しながら寮の方向へ
歩き出したが、「もう嫌だ、これから家の方へ帰る。」と言い張る彼
女をやっとなだめて急いだ。果たして先生は必死な表情で名簿を手に
待っていて下さった。あれ程の混乱の中でちりぢりに逃げたのに全員
揃うことが出来た。
竹の垣根を倒すのに手間取っている間に、近くの下水溝へ逃げ込んだ
一団は煙突状態となり煙を吸い込んで倒れる友もいたり、兵隊さんに
救助された友もいた。多くの皆様方に学徒か、と声をかけて守って頂
いたお陰だと深く感謝している私たちである。
昼近く一個のおむすびを頂き、炎天下の焼け跡を狩留賀へと行進した
七月二日であった。
後日出勤すると作業台の上に一編の詩がのせてあった。
 あした露けき 草をわけ  乙女ヶ丘の夢のあと
 一筒の水 持ち来り  焦げしむくろに捧ぐれば
 きのうのままの東雲の おのづからなる たたずまい
 今し消えゆく星の影  君が抱きし夢に似て
 捧ぐる水は さらでだに  憂い濃き身の草の露
 しとどに濡れて汝がための  熱き涙となりにけり  
学校の寮がやられた、と夜勤中だった作者は坂道を駆けつけて下さり、
炎をかいくぐって壕の中まで確かめて下さったとか。
今日までの人生の中で呉海軍工廠で過ごした一年二ヶ月は、純粋で命
がけで、青春そのものだったと感じている。

目次へ


十六.火の海

        林 栄男
               (呉市焼山東二丁目十七ー六)

(中通の二重橋通で焼夷弾爆撃にあい、本通の焼夷爆弾攻撃のすさま
じさの中を逃げ切れず、堺川に飛び込んだ。火風が舞い、熱気で無茶
苦茶に口が渇いた。水の中で聞いた、火炎のゴーゴーうなる音は絶え
ない。)

まもなく戦後五十年を迎えようとしている。
今日戦争や敗戦体験を正確に、次の世代へ語り継ぐということは、体
験者として、また生存者としての義務ではないでしょうか。
呉市が米軍のB二十九爆撃機の焼夷弾で、焦土化したのは、昭和二十
年七月一日で、呉市民として永久に忘れることの出来ない大事な日で
す。
当時私は、父が商売をしていた関係上、元の中通九丁目二重橋通り、
現在の「銀座でパート」に住んでいました。家族は両親と、妻と、二
歳の長男の五人でした。それまで呉市は、連日連夜のように空襲があっ
た。
七月一日の夜は、警戒警報が発令され、その直後に空襲警報が発令さ
れた。十一時を少し過ぎていた。
「サイレン」がいつもより長く続くので、心配で暗闇の中を路地から
表通りの二重橋筋通りに出た。すると東方の休山近くの和庄、長迫地
区方面へ、幾十もの火の玉のようなものが落ちているのが見えた。こ
れは確かに焼夷弾爆撃だと思い、急いで家に帰り、母、妻と長男の三
名を一先ず、泉場町−堺川防火帯跡の防空壕へ避難させた。
もう一度和庄町の方を見たら、何十もの火の柱が次第に此の方に近づ
いている。見る見るうちに本通の電車道路あたりに来ていた。
これは生命が危ないと思い、すぐに走って家に引返し、非常袋も、重
要物品も、何もかも置いたままで、今まで寝ていた掛け布団を頭から
スッポリと被り、父と二人で大急ぎ表通りへ走った。二軒先のえびす
や呉服店の四つ辻を右に廻って、家族たちが逃げた防空壕へと向かっ
た瞬間、道路上に大きな音がして、パッと火焔が立った。振り向いて
見ると避難している女の人の衣類にその火が燃え移り、忽ち油の火は
衣類から頭の方へと、一瞬にして身体全部が火達磨のように見えた。
「ア、アー」と惨事に驚き、思わず瞼を閉じた。残念ながら我々は逃
げるのが精一杯で、どうすることも出来なかった。まさにこの世の地
獄を見せられたようで、両手を合わせた。
その間にも、屋根や道路に花火の如く焼夷弾が落下して来る。始め二
河公園か、岩方町の方へ走って逃げる心算だった。しかし余りにも家
屋の燃えるのが早く、火勢が強いので、堺川の方が安全だと思って、
二重橋の近くの川へと逃げた。幸い川の水は膝位までだった。川幅は、
七、八米余りだが、中央は危険なので、皆んな両岸に吸いつくように
してじっとしていた。
呉一番の繁華街の密集した中通、本通、東雲町、堺川通、岩方通、等
一帯の家々が、パチパチと大きく音を立てて燃え拡がり、見る見るう
ちに周囲は火の海となった。それが「ゴーゴー」と唸りを生じ、火風
が舞い熱気で無茶苦茶に口の中が乾いてカラカラとなった。苦しいの
でタオルを足元の川水で濡らして口に当て湿らして、何とか我慢が出
来た。
時間が経つにつれて、火の勢いは益々強くなり、このままではもう終
わりだと思った。そのうち川の中の避難者の数も増えてきて両岸に寄
り添うようにし、各自防空頭巾や座布団や、布団を被っていた。ふと
対岸を見ると被っている布団が飛び火で燃えているので大声でその人
に知らせたら、びっくりして布団を川に浸けて無事消した。このまま
では自分のも何時燃えるか分からないので、布団に水をかけて濡らし
た。
何時間もずっと、しゃがんでいたので足が痺れ、その上水の中なので
下から身体が冷えてきた。早く敵機が逃げてくれないかと祈っていた。
同じ姿勢のまま夜が明けるまで……。
火焔の「ゴーゴーゴー」と大きな唸るような音は絶えなかった。漸く
周囲の熱気も下がり人の顔も、うっすらと見える夜明けとなり、川か
ら道路に上がって周囲を見ると、家という家は全部黒焦げとなり、見
渡す限り焼け野原となっていた。驚くと同時に、悲しいやら残念やら、
憎いやら、只々我を忘れて暫く父と二人茫然となった。
四方の焼け跡からは、濛々と黒い煙、白い煙が立ちこめていた。我が
家の跡も何処か分からない位に灰の中になっていた。その中で二重橋
通りバカ盛食堂の前の伊藤理髪店の、洋館の焼けて折れ曲がった鉄骨
が宙に浮いて見えるだけだった。遠くは呉駅まで一望、見渡す限り焦
土となっていた。余りの戦慄に我を忘れて唯立っているのがやっとだっ
た。
焼け跡はまだ煙が燻っていて熱く近付くことが出来なかった。消防署
も勿論、市民誰もが逃げるのが精一杯で、消火を考える余裕はなかっ
たと思う。ただ生命を守るため必死だった。如何に空襲が激しかった
か次の記事を読んで大変驚いた。
昭和二十年七月二十七日、呉警察署調べ、呉市街地に投下された焼夷
弾は八万百拾個、三百五十八ヘクタールが焼けた。全焼家屋二万二千
五二戸、半焼百拾六戸、死者一千八百十七人と発表している。(昭和
五十年「中国新聞社」発行本 「呉空襲記」より。)
火災は恐ろしい、何もかも無くしてしまう。
我ら罹災者は箸一本、茶碗一つもない丸裸となった。しかし不幸中の
幸いは、翌日避難していた母たち家族三人が防空壕から出て来て無事
再会、五人涙を出して喜び合った。
あれから五十年経った。今日なお地球上何処かで毎日のように戦が行
われている。
幾多の家族は家を失い、親子兄弟姉妹等犠牲者が多数出ている現状を
見る時、慨嘆する次第です。平和な毎日を祈願しペンをおきます。

目次へ


十七.呉空襲の思い出

              山田 武義
                (呉市宮原五丁目一ー五)

(呉消防署に勤務中に出会った呉市街の空襲。
呉市内一円昼のように明るい。民家は火の海。
消火栓の水圧は0。
消火作業中に同僚も犠牲になった。
ピカドンも見ました。)

昭和二十年六月二十日広島県消防手拝命、呉消防署勤務につく。六月
三十日午後十一時から十二時、見習として望楼勤務中、消防署ちかく
の民家に警防団が灯りが外に光がみへるので黒くするように注意する。
七月一日呉上空に敵機B二十九、一機によって清水地区に照明弾投下
する。
呉市内一円昼のように明るく感じた。和庄地区に焼夷弾投下、和庄地
区の民家は火の海となる。大八車に家財を積んで避難が始まる。
まもなくすると出動命令がでる。梯子分隊は西法寺付近の消火作業を
開始、消火栓の水は水庄0で消火作業に役に立たない状態でした。
ホースをかたづけて梯子車に帰り、本通中通の方向を見ると煙がもく
もくと出ておりました。
消防署に帰ってみると看護婦さんが数人た待機をしていて、目を洗う
といわれましたがすぐ消防署の中に入りました。
上司より同期生富野君が死亡したと話をききました。呉駅消火作業中、
消防車が爆撃を受けて富野君は死亡した。講堂に富野君の遺体が置い
てありました。
海軍の水兵たちが上陸して、消防署が焼けずに残っている話をしなが
ら通りすぎた。数日後広島から消防車で呉にやってきた警察官上司は、
呉空襲で焼け野原と成りきげんはわるい話でした。
数日後今度は広島空襲の恐れあり、消防車数台を広島へ救援にかけつ
ける。
八月六日宮原出張勤務中ぴかと呉まで光りが有りました。五時頃ある
女性より広島空襲でやられました。と話を聞かされます。広島はピカ
ドンで市内が全滅した。

目次へ


一八.忘れまい呉空襲

                久留島 昌子
                (呉市上内神町十ー四七)

(学徒動員に明け暮れる女学生時代。軍国主義教育の中で育ち、遭遇
した呉空襲。内神町から見た呉空襲は、計画的な空襲と見えた。空襲
後の市内は、黒い景色。学徒動員の工廠と日常生活の記憶は、今はも
う・・。)

 その夜、父はめったにない宿直でしたから、わたしは、母と弟と三
人で頼りなく眠っていました。
 パッと輝くような明かるさに、わたしは、ただならぬものを感じて
飛び起きました。
 窓の外は皓皓とした明かるさです。雨戸の部屋で休んでいた母はま
だ気づいていません。いそいで起しました。
 洗面所の窓から眼下を見ると、ユラユラと火の玉が、向かいの丘の
家の上に降りています。照明弾らしく、あたりを明かるくするための
もののようです。
 やがて、バラバラと、雨がトタンをたたく音を聞きます。
「雨が降るからあまり燃えないね。」 そう母に言ったものです。
月夜に雨が降るはずもないのに、その非論理性に気づいていないわた
しなのでした。あとで総合した話によると、木造建築を燃えやすくす
るためには油脂をばらまいたもののようです。やがて、空襲警報の無
気味なサイレンが鳴りはじめたのだったと思います。
 防空壕は、家の斜め前にありましたから、Uの字型の一番奥へ場所
を占めることができました。またたく間に近所の人が押しかけてきて
壕の中はいっぱいになります。
「助けて。」それは、金沢さんという、わたしの先輩になる方の声で
した。二年来の結核で、すっかりやせてしまわれ、枝のようになった
白い足と手を着物から出して、担架がわりのふとんにかかえられて運
びこまれました。
 以前の夜、空襲警報が鳴ったとき、金沢さんは、このようにして壕
に運ばれてきました。しかしその後、空襲があっても連れられて来ま
せんでした。爆弾が落ちたら家で死ぬんだと、病人が動かないからと
いうことでした。でも今夜は運ばれてきました。息をはずませもがく
ようにして、「助けて」と叫ばれるのです。当時、結核になったから
といって有効な治療法があるわけでなく、その上食料もない状態でし
たから、病勢の進むのを待って死ぬより道のない時でした。
 その夜警報はなかなか解除になりませんでした。それどころか、入
口の方では、ただならぬ人の声や、人の動きがあり、奥へつめてくだ
さいと何度も指図されました。
 人がまばらになった